英雄のバトン
巨大な顎が閉じる。
その寸前だった。
ギィン――ッ!!
鋭い金属音が空気を裂く。
銀色の閃光が横一文字に走り、ティラノサウルスの顎が大きく弾かれた。
巨体がよろめく。
クロは思わず目を開けた。
目の前には、一人の少年が立っていた。
灰色の戦闘服。
機械的な装甲。
右手には、まだ火花を散らす大型の刃。
その背中だけが、ティラノへ向いている。
「……大丈夫か」
少年は振り返らないまま言った。
まるで近所で転んだ人へ声を掛けるような、何気ない口調だった。
クロは言葉が出ない。
「あ……」
掠れた声しか出ない。
「立てる?」
静かな問いかけ。
答えるより早く、ティラノが怒りの咆哮を上げる。
地面が震えた。
その瞬間。
「ギン! 下がって!」
少女の声が響く。
数枚の札が空中へ放たれる。
札は赤い光をまといながら一直線に飛び、ティラノの脚へ巻き付いた。
巨体の動きが一瞬だけ止まる。
「ユズ、助かる」
「礼はあと!」
金髪の少女――ユズは短く言い返える。
「早くその子連れて!」
ギンは「ああ」とだけ返事をすると、クロへ手を差し出した。
「ほら」
クロはその手を見つめる。
ほんの少し前まで。
届かなかった手があった。
助けられなかった人がいた。
なのに今。
今度は誰かのほうから、自分へ手を伸ばしている。
「……あ」
震える手で、その手を掴む。
力強く引き上げられた。
「歩ける?」
「……た、多分」
「多分か」
少しだけ笑ったような声だった。
そのとき、通信機から明るい声が飛び込んでくる。
『ギンくーん、聞こえるー?』
場違いなくらい軽い声。
『その子の回収を優先! ヘリ、あと二分で着くよ!』
「了解」
『ティラノの噛む力、装甲でも結構危ないから気を付けてねー!』
「分かってる」
短く返事をしながらも、ギンはクロを庇う位置を崩さない。
ティラノが再び暴れる。
ユズは札を次々と放ち、その動きを抑え込む。
「早く!」
「今行く!」
ギンはクロの肩を支え、そのまま走り出した。
クロは何度も足をもつれさせる。
そのたびに腕を掴まれ、支えられる。
一度も振り返らず。
一度も手を離さず。
「……あの」
息を切らしながら、ようやく声を絞り出す。
「ん?」
「名前……」
ギンは少しだけ首を傾げた。
「あなたの名前……教えてください」
一瞬だけ間が空く。
それから前を向いたまま答えた。
「今はそんなのどうでもいい」
その言葉に悪意はなかった。
本当に、そう思っているだけなのだ。
「生きて帰ることだけ考えろ」
それだけ言って、また前を見る。
クロは何も言えなかった。
この少年にとって、自分は救助対象の一人。
数ある任務の、その一件に過ぎない。
それでも。
握られた手は温かかった。
自分を守るように前へ立つ背中は、大きく見えた。
胸の奥で何かが小さく音を立てる。
今まで知らなかった感情だった。
そのとき、頭上からヘリコプターのローター音が近づいてくる。
ロープが投下される。
「乗せるぞ!」
ギンがクロを押し上げる。
その横で、ユズが札を構えたまま叫ぶ。
「ギン!」
ギンは振り返る。
「無茶だけはしないで」
その一言だけだった。
「……分かってる」
ギンは小さく笑って答える。
クロはロープへしがみつきながら、そのやり取りを見つめていた。
二人の距離は近い。
きっと昔から、こうして何度も命を預け合ってきたのだろう。
ヘリがゆっくりと上昇を始める。
崩れゆく研究所が遠ざかる。
クロは最後まで、あの少年から目を離せなかった。




