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VERSE0.0-世界政府記録アーカイブ文書001  作者: 甘酒
エピソード4
41/94

命をつなぐ背中

安全区画へ逃げ込めば助かる。


そんな希望は、とっくに消えていた。


隔壁の一部は無残にひしゃげ、赤い非常灯だけが壊れた通路を照らしている。


クロと博士は声を潜めながら、その通路を進んでいた。


目指すのは地上へ続く非常階段。


そこまで辿り着ければ――。


「……もう少しだ」


博士が小さく呟く。


「焦るな。音を立てるな」


クロは黙って頷いた。


鼓動だけが耳の奥で鳴り続けている。


角を曲がる。


二人は同時に足を止めた。


非常階段の入口。


その手前に、一頭のラプトルがいた。


低い姿勢のまま鼻先をゆっくり左右へ動かし、床の匂いを探っている。


こちらには、まだ気づいていない。


「……あいつ」


博士が息を呑む。


「知ってる個体なんですか」


しばらく返事はなかった。


やがて博士は小さく頷く。


「今の担当じゃねえ。でも、繁殖施設にいた頃……生まれたばかりの頃だけ世話してた」


ラプトルは静かに尾を揺らす。


「餌を持っていくと、一番最初に寄ってくるやつだった」


懐かしむような声だった。


それが余計に切ない。


「怖くないんですか」


クロが小さく尋ねる。


博士は苦く笑う。


「怖いさ」


間を置いて続ける。


「今すぐ逃げ出したいくらいにな」


その目はラプトルから逸れない。


「でもな」


静かな声だった。


「あいつは何も間違っちゃいねえ」


「……」


「腹が減れば狩る。本能のまま生きてるだけだ」


博士はゆっくり息を吐く。


「悪いのは、こんな状況を作った人間だ」


クロは何も言えなかった。


博士は足元へ視線を落とす。


床に転がっていた金属片を拾い上げた。


その意味に気づき、クロの表情が変わる。


「博士……」


「俺が気を引く」


「駄目です」


即座に首を振る。


「そんなことしたら――」


「クロ」


博士は静かに遮った。


「聞け」


その声は驚くほど落ち着いていた。


「お前は、生きろ」


クロの息が止まる。


「外へ出ろ」


「でも!」


「俺より、お前のほうが未来がある」


博士は笑った。


こんな状況なのに、いつものような優しい笑顔だった。


「それにな」


少しだけ照れくさそうに続ける。


「お前が毎朝ちゃんと備品数えてくれてたから、俺は随分助かった」


クロは目を見開く。


そんなことを言われるとは思っていなかった。


「……博士」


返す言葉が見つからない。


博士は金属片を握り直す。


「泣くのは外へ出てからにしろ」


そう言って金属片を通路の反対側へ投げた。


ガンッ――!


乾いた音が響く。


ラプトルが勢いよく振り向いた。


その一瞬。


博士はクロの背中を強く押す。


「行け!」


体が前へ弾かれる。


クロは階段へ向かって駆け出した。


振り返る。


博士はラプトルとは逆方向へ走りながら、大きく叫んでいた。


「こっちだ!」


ラプトルが一斉に博士へ向きを変える。


「博士!」


叫んだつもりだった。


けれど、自分の声は警報の中へかき消されていた。


クロは階段を駆け上がる。


一段、また一段。


その背中から目を離せないまま。

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