おびえる手
避難通路は、どこまでも続いているように思えた。
鳴り止まない警報。
荒い呼吸。
背後から迫る足音。
博士に腕を引かれながら、クロは必死に走る。
やがて前方に、分厚い金属製の隔壁が見えた。
非常時に自動で閉鎖される安全区画。
資料整理の仕事をしていたとき、その仕様を読んだ記憶が脳裏をよぎる。
「あそこだ!」
博士が叫ぶ。
「扉の向こうへ入れば――!」
二人は最後の力を振り絞って駆ける。
そのときだった。
隔壁の向こう側ではなく、こちら側から一人の研究員が走ってくるのが見えた。
若い女性だった。
名前は知らない。
けれど、何度か廊下ですれ違ったことがある。
備品を届けるたびに、小さく笑って「ありがとう」と言ってくれた人だった。
「急げ!」
博士が叫ぶ。
隔壁がゆっくりと閉まり始める。
金属同士が擦れる重い音。
女性職員は最後の力で駆ける。
あと少し。
あと数歩。
届く。
そう思った瞬間だった。
足がもつれた。
「っ!」
女性が前のめりに倒れる。
床へ手をつき、体勢を立て直そうとする。
隔壁は容赦なく閉まっていく。
「早く!」
博士が扉を叩く。
クロも駆け寄る。
届く。
まだ間に合う。
手を伸ばせば。
体は前へ出た。
腕も伸びる。
指先が、女性へ向かってまっすぐ伸びる。
その瞬間。
通路の奥。
赤い非常灯の下で、黒い影が跳ねた。
ラプトル。
一頭。
二頭。
三頭。
床を蹴る音が一気に近づく。
心臓が凍りついた。
体が止まる。
あと一歩。
本当に、それだけだった。
伸ばした指先は空を切る。
女性も必死に手を伸ばす。
互いの指先の間には、ほんのわずかな隙間しかなかった。
ガン――ッ。
隔壁が閉じる。
金属同士が噛み合う重い音が、通路へ響いた。
一枚の壁が、二人を隔てる。
向こう側から短い悲鳴が聞こえた。
何かが激しくぶつかる音。
そのあと。
静寂。
「……」
クロは閉じた扉を見つめたまま動けなかった。
伸ばした腕だけが、中途半端な格好で宙に残っている。
指先が、小さく震えていた。
「クロ」
博士が静かに名前を呼ぶ。
責める声ではない。
だからこそ、胸が締めつけられた。
「僕……」
声が震える。
「あと少し、だったのに」
博士は閉じた隔壁を見つめ、それからゆっくり首を振った。
「あれは、お前のせいじゃない」
クロは答えられない。
掌には、届かなかった感触だけが残っていた。
ほんの数センチ。
その数センチが越えられなかった。
もし恐怖に足が止まらなければ。
もしもっと早く動けていたら。
そんな考えだけが、頭の中を何度も巡る。
「……行くぞ」
博士が肩へ手を置く。
「ここで止まれば、俺たちも終わりだ」
クロは小さく頷く。
握り締めた拳は震えたままだった。
それでも、博士のあとを追って歩き出す。
伸ばしたまま届かなかった右手だけが、いつまでも重く感じられた。




