地下に息づく奇跡
血清を載せた台車を押しながら、クロは博士のあとに続いてエレベーターへ乗り込む。
扉が閉まり、機械音とともにゆっくり下降が始まる。
数字が一つ、また一つと減っていき、やがて地下深くで静かに停止した。
扉が開く。
ひんやりとした空気が流れ込み、思わず足を止めた。
目の前に広がるのは、地下とは思えないほど巨大な空間だった。
高い天井から人工太陽のような照明が降り注ぎ、青々と茂る樹木や草原を照らしている。
遠くで水が流れる音が響く。
その奥で、ゆっくりと長い首が持ち上がった。
巨大な草食恐竜。
研究所では「個体七号」と呼ばれている。
その一歩だけで地面がかすかに震え、重たい足音が胸の奥まで響いた。
「おー、今日も元気そうだな」
博士が手を振る。
個体七号はゆっくりこちらへ顔を向けると、大きな瞳を一度だけ瞬かせた。
「……」
何度見ても、不思議だった。
図鑑でしか知らなかった生き物が、今こうして息をし、歩き、草を食べている。
まるで時間だけが、この場所では何千万年も巻き戻ってしまったようだった。
「すごいですよね」
思わず漏れた声に、博士が笑う。
「だろ?」
「まだ信じられません。本当に生きてるなんて」
「俺なんか三十年世話してるのに、いまだにそう思うぞ」
博士は笑いながら給餌設備の点検を始める。
クロは台車から血清ケースを降ろし、保管庫へ運び込んだ。
「クロ」
「はい?」
「お前、恐竜好きだろ」
思わず動きが止まる。
「……そんなこと」
「さっきからずっと七号見てたじゃねえか」
図星だった。
幼い頃、祖父の書斎にあった古びた恐竜図鑑。
ページが擦り切れるほど眺めた記憶が、ふと蘇る。
けれど、それを口にすることはなかった。
研究員でもない自分が、好きだと言ったところで何になる。
そんな思いが、先に立ってしまう。
代わりに別の質問を口にした。
「博士は、怖くないんですか」
「ん?」
「毎日こんなに大きな生き物と一緒で」
博士は少しだけ考えてから笑った。
「怖いさ」
あっさりと言う。
「でもな、飯を食って、眠って、たまに機嫌悪くして。そういう姿を毎日見てると、家族みたいなもんになる」
そう言って、個体七号の首を見上げる。
「もちろん、本気を出されたら俺なんか一瞬だけどな」
笑い声が区画に響いた。
その視線が、区画のさらに奥へ向く。
分厚い隔壁。
幾重ものロック。
警告灯。
「あっちは肉食エリアだ」
博士がぼそりと呟く。
「俺も滅多に近づかねえ。担当が違うし、近づく理由もねえ」
クロも隔壁へ目を向ける。
そのとき。
低く押し潰したような唸り声が、壁の向こうからかすかに響いた。
空気が震えた気がして、思わず肩に力が入る。
「……気のせいか」
誰に言うでもなく呟き、台車を押し直した。
区画を出ようとしたところで、点検を終えた職員とすれ違う。
「クロくん、お疲れ!」
「今日も備品ぴったりだったよ。助かった!」
「あ……ありがとうございます」
照れくさく頭を下げると、職員は笑って手を振り、そのまま去っていった。
クロも小さく振り返す。
研究所へ来たばかりの頃は、挨拶すらぎこちなかった。
それでも三年という時間は少しずつ距離を縮めてくれた。
名前を呼んでくれる人が増えた。
声をかけてくれる人も増えた。
それだけで十分だった。
台車を押しながら、クロはもう一度だけ振り返る。
人工の空の下で、個体七号が静かに草を食べていた。
その穏やかな光景が、ずっと変わらないもののように思えた。




