新しい風
ベヒモス事件が終結してから、数日。
神奈川支部には、ようやく普段の静けさが戻りつつあった。
結界の点検を終えたユズは、廊下で室長と顔を合わせる。
「ユズ、本部から内部調査の担当者が来るって話は聞いたかい?」
穏やかな口調のまま、室長は歩調を合わせてくる。
「まあね。……何かあったんですか?」
「ベヒモス事件の事後調査さ。もっとも、この件は一部の人間しか知らない話だけどね」
「ふーん……」
ユズは軽く相槌を打った。
あれほどの事件だ。各支部へ確認が入ることくらい、不思議ではない。
その程度の認識しかなかった。
二人はそのままエントランスへ向かう。
すでに室長は来客を迎える準備を整えており、ユズはただ偶然その場に居合わせただけだった。
やがて、転移魔方陣が淡く輝く。
光が収まると、一人の少女が姿を現した。
肩口で切り揃えられた淡い桃色の髪。
白衣の上からゆるく羽織ったパーカー。
丸い伊達眼鏡の奥には、人懐っこそうな瞳が笑っている。
「はじめましてっ!」
少女は元気よく一礼した。
「情報解析局所属、ココアです♪ 本日からしばらくお世話になります。よろしくお願いします!」
思った以上に礼儀正しい。
室長も柔らかく微笑み返した。
「ようこそ神奈川支部へ。話は聞いているよ。調査が終わるまで、こちらで協力させてもらう」
「ありがとうございます!」
ココアはぱっと顔を輝かせる。
「施設も見て回りたいので、あとで案内していただけると嬉しいです!」
「もちろん構わないよ」
和やかな挨拶を交わす二人を横目に、ユズは静かに踵を返そうとした。
その時だった。
「あっ!」
弾んだ声が支部内に響く。
廊下の向こうから、一人の青年が歩いてきていた。
銀髪の少年――ギン。
「もしかして、ギンくん?」
「……は?」
突然名前を呼ばれ、ギンは怪訝そうに立ち止まる。
ココアは迷う様子もなく駆け寄った。
「やっぱり!」
ぱっと笑顔を咲かせる。
「データで見た通りだぁ。実物のほうがずっとかっこいいね!」
「……誰?」
「ココアです♪ 本部の情報解析局から来ました!」
ぺこりと頭を下げる。
「今回の事件の調査で、しばらくお世話になります!」
「……ああ」
ギンはまだ状況を飲み込めていないらしい。
その様子を気にも留めず、ココアは自然な距離まで歩み寄った。
「よろしくね、ギンくん」
軽く腕に触れる。
本当に一瞬だけ。
けれど初対面としては、ずいぶん近い。
「……近い」
「あはは、ごめんごめん♪」
そう言いながらも、一歩しか下がらない。
むしろ興味深そうにギンを見つめている。
「記憶処理も受けずに、世界政府職員になったんだよね?」
「……そうだけど」
「すごいなぁ。そういう経歴の人、私初めて見た」
屈託のない笑顔。
まるで以前からの知り合いのような親しさだった。
「すっごく興味あるかも」
「……初対面で言う?」
「言っちゃった」
ココアは舌を少しだけ出して笑う。
「ごめんね?」
悪びれる様子はほとんどない。
ギンは困ったように眉を寄せるだけで、それ以上何も言わなかった。
拒絶するわけでもなく、受け入れるわけでもなく。
ただ、初めて会うタイプの相手に戸惑っている。
そんな反応だった。
少し離れた場所で、その様子を見ていたユズは、小さく息を止める。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
理由は分からない。
ココアが悪いことをしたわけではない。
ギンだって、何もしていない。
なのに。
あの距離の近さ。
自然に笑いかける表情。
ギンのすぐ隣へ入り込んでいく姿。
それら全部が、胸のどこかを引っかいていく。
――なんなの。
胸の奥が落ち着かない。
見ているだけなのに、なぜか居心地が悪い。
そんな感覚は初めてだった。
自分でも、その正体が分からない。
「ユズ?」
室長の声で、はっと我に返る。
「え?」
「案内を途中まで手伝ってもらえるかな。彼女もしばらくここで仕事をするから」
「あ……はい」
短く返事をしながら、もう一度だけギンたちを見る。
ココアは相変わらず楽しそうに話しかけていて、ギンは少しだけ困ったような顔をしている。
その光景が、なぜか頭から離れない。
――別に。
――何でもない。
心の中でそう繰り返しながら、ユズは二人から視線を逸らした。
けれど、一度芽生えた小さな棘は消えなかった。
むしろ時間が経つほど、少しずつ、その存在を主張し始める。
名前も分からない感情が、静かにユズの胸の奥で息づき始めていた。




