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VERSE0.0-世界政府記録アーカイブ文書001  作者: 甘酒
エピソード3
29/94

届かない距離



 転移魔法陣の光が消えると同時に、熱を帯びた風がユズの頬を叩いた。


 目の前に広がっていたのは、災害そのものだった。


 封印施設は無残に崩れ落ち、大地は幾筋もの亀裂に引き裂かれている。


 瓦礫の向こう。


 島の中央にそびえ立つ黒い巨影が、ゆっくりと身じろぎした。


 その動きだけで地面が揺れ、空気が震える。


 ユズは息を呑んだ。


 ――これが、ベヒモス。


 十年前、この島を壊滅へ追い込んだ怪異。


 伝承でも記録でもない。


 今、自分の目の前に存在している。


「結界班、配置につけ!」


 現地指揮官の怒号が飛ぶ。


「再封印術式を展開する! 一秒でも早く陣を完成させろ!」


 ユズは返事と同時に駆け出した。


 各支部から集められた結界術師たちが、それぞれ指定位置へ散っていく。


「ユズ!」


 別支部の術師が声を張る。


「起点は君が担当だ! 崩したら全部やり直しになる!」


「分かってる!」


 護符を地面へ打ち込み、霊力を流し込む。


 一枚。


 また一枚。


 地面に刻まれた術式が淡く発光し始める。


 ここが陣の心臓部。


 だからこそ、この場所は絶対に離れられない。


 一歩でも動けば術式は崩壊し、ここまで積み上げたすべてが無駄になる。


 だから。


 何が起ころうと、立ち続けなければならない。


「前衛、散開!」


 遠くから力強い声が響く。


「右翼は陽動! 正面部隊は時間を稼ぐ!」


 エースだった。


 爆縮推進の轟音を響かせながら、前衛部隊が巨大な怪物へ突撃していく。


 銃声が連続する。


 対怪異戦闘銃。


 特殊弾がベヒモスの全身へ降り注ぐ。


 しかし。


 巨体はほとんど揺るがなかった。


「硬ぇ……!」


 風に乗ってギンの声が届く。


「気にするな!」


 エースが叫び返す。


「倒す必要はない! 封印が完成するまで持たせろ!」


 その直後だった。


 ベヒモスが咆哮する。


 空気そのものが爆発したかのような衝撃。


 地面が震え、耳鳴りが走る。


「っ……!」


 結界班の何人かがその場へ膝をついた。


 ユズも思わず歯を食いしばる。


 護符が揺れる。


 それでも両手だけは離さない。


 陣は崩せない。


 その間にも、戦闘は続く。


 さらに重い銃声が轟いた。


 世界政府最精鋭狙撃部隊。


 対怪異用に特別調整された大口径ライフルが火を噴く。


 着弾。


 爆炎。


 しかしベヒモスはわずかに身じろぎしただけだった。


 まるで山を撃っているようだった。


 ユズは護符へ霊力を流し込みながらも、無意識に視線を前線へ向けてしまう。


 見てはいけない。


 集中しなければ。


 そう思うほど、目はギンの姿を探してしまった。


 その時だった。


 ベヒモスの巨大な前脚が振り上げられる。


 地面を抉るほどの質量が、一人の戦闘員へ迫っていた。


「――ギンちゃん!」


 誰かが叫ぶ。


 間に合わない。


 そう思った瞬間。


 衝撃が走った。


 ギンの身体が吹き飛ばされ、瓦礫の中へ叩きつけられる。


 動かない。


 煙が舞う。


「ギン……!」


 思わず声が漏れた。


 足が前へ出そうになる。


 でも動けない。


 動けば陣が崩れる。


 分かっている。


 分かっているのに。


 身体は勝手に駆け出そうとしていた。


「……っ!」


 ベヒモスの前脚が再び持ち上がる。


 狙いは倒れたギン。


 次を受ければ助からない。


 そう思った、その瞬間だった。


「間に合えッ!」


 赤い閃光が走る。


 爆縮推進を限界まで噴かしたエースが、弾丸のような速度で飛び込んできた。


 ギンの身体を抱えるように引き寄せ、そのまま横へ跳ぶ。


 直後。


 巨大な前脚が地面へ叩きつけられた。


 轟音。


 爆風。


 瓦礫が空高く舞い上がる。


 あと一瞬遅ければ。


 二人とも押し潰されていた。


 砂煙の向こうから、咳き込む声が聞こえる。


「……っ、エース」


 ギンだった。


 生きている。


 その声を聞いた瞬間、ユズは自分が息を止めていたことに気づいた。


 肺へ空気が一気に流れ込む。


「無事か、ギンちゃん」


 エースが肩で息をしながら笑う。


「その台詞……」


 ギンは苦笑した。


「爆縮推進をあんな無茶な使い方したお前に言われたくない」


「細かいこと気にすんな」


 エースは乱暴にギンの肩を叩く。


「ちょっと本気で焦ったぞ」


「……悪い」


 短く謝ると、ギンはふらつきながらも立ち上がった。


 再び武器を構える。


 その姿を見届けて、ようやくユズは胸をなで下ろした。


 けれど。


 安心したはずなのに。


 胸の奥は、まだ苦しいままだった。


 ――なんで。


 護符を握る手が震える。


 恐怖だけではない。


 仲間だから?


 監督してきた相手だから?


 そんな理由だけでは説明できないほど、さっきの一瞬は怖かった。


 失うかもしれない。


 そう思った瞬間。


 胸のどこかが、強く締めつけられた。


 ――違う。


 ユズは薄々気づき始めていた。


 ギンは、自分にとってただの仲間ではない。


 もっと特別な存在になっている。


 まだ、その感情に名前はつけられない。


 けれど。


 もう見ないふりだけはできなかった。


「結界班!」


 指揮官の声が飛ぶ。


「陣の進捗は!」


 ユズははっと我に返る。


「……あと少し!」


 震える手を握り締め、最後の護符を手に取る。


「すぐ完成させます!」


 術式がさらに輝きを増す。


 前線では今もなお、戦闘員たちが命を懸けて時間を稼いでいる。


 その命を無駄にしないためにも。


 自分は、この場を守り抜かなければならない。


 ユズは護符へ霊力を込めながら、もう一度だけ前線を見た。


 ギンは立っている。


 まだ戦っている。


 その姿を確かめると、小さく息を吸い込み、再び術式へ意識を集中させた。

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