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VERSE0.0-世界政府記録アーカイブ文書001  作者: 甘酒
エピソード3
24/94

静かな廊下と、小さな違和感



 神奈川支部の廊下は、今日も変わらず静かだった。


 地下施設特有の無機質な照明が等間隔に並び、白い光が床を淡く照らしている。その中を、ユズは古びた護符の束を抱えて歩いていた。


 朝の結界点検は、ようやく一段落したところだ。


 札の傷みや霊力の減衰を一枚ずつ確認するこの作業は、地味だが欠かせない。誰も気に留めないような仕事ほど、日常を守る土台になっている。


「——ユズ」


 穏やかな声に呼び止められ、ユズは振り返る。


 室長だった。今日は神主装束ではなく、支部内用の簡素な事務服を着ている。


「おはようございます」


「うん、おはよう」


 軽く手を上げた室長は、思い出したように続けた。


「そういえば、例の件だけど、正式な結論が出たよ」


「例の件?」


「海外で立て続けに起きたゾンビ大量発生事件だ」


 ユズの手が、札の束の上で止まる。


「……ギンが派遣されてた、あれですか」


「そう。その件について、世界政府の公式見解が発表された」


 室長は資料をめくるような口調で告げた。


「各地で独立して発生した、偶然の同時多発事象——そういう扱いになった」


 あまりにもあっさりした言い方だった。


 あれほどの規模の事件とは思えないほどに。


「……偶然、ですか」


「怪異の発生原理は、まだ分かっていないことばかりだからね」


 室長は肩をすくめる。


「大勢の人間が強く存在を認識し続けることで発生しやすくなる。その程度しか判明していない以上、完全な説明は誰にもできない」


「だから、『偶然重なった』という結論も否定はできない、ってことですか」


「そういうことになるね」


 理屈としては理解できる。


 だからこそ、ユズはそれ以上踏み込めなかった。


 分析官ではない。


 捜査官でもない。


 違和感を感じたとしても、それを証明する術は持っていない。


「……そうですか」


「気になる?」


「別に」


 そう答えてから、少しだけ考える。


「ただ……」


 視線を札へ落とし、小さく呟いた。


「規模の割に、話が軽い気がしただけです」


 室長は優しく目を細めた。


「そうかもしれないね」


 だが、それ以上は何も言わない。


「私たちの仕事は終わった。あとは上の判断を信じよう」


「はい」


 短く返事をすると、室長は満足そうに頷き、そのまま廊下の奥へ歩いていった。


 静かな足音が遠ざかっていく。


 残されたユズは、小さく息をついた。


 胸の奥に、何かが引っかかっている。


 けれど、それを言葉にできるほどの根拠はない。


 ――考えすぎ、かな。


 自分にそう言い聞かせ、札の束を抱え直した、その時だった。


「——ねえ」


 廊下の角から、見慣れた銀髪が姿を現す。


 ギンだった。


 制式装備を肩に引っ掛けたまま、いつもの無愛想な表情で歩いてくる。


「点検、まだ終わってないの?」


「うーるーさーいーなー」


 ユズは頬を膨らませる。


「ワタシは忙しい立場なの。キミが暇そうすぎるんだよ」


 札の束を持ち上げて見せると、ギンは一瞥しただけで鼻を鳴らした。


「相変わらず几帳面だね」


「それ褒めてる?」


「さあ」


 相変わらず素っ気ない。


 少し前の自分なら、この態度に腹を立てていただろう。


 でも今は違う。


 これがギンという人間なのだと、ちゃんと理解している。


「そっちは?」


「訓練。それと装備返却」


 肩のケースを軽く叩く。


「TypeⅠの調子が悪い。また整備が必要らしい」


「独り立ちしたのに、まだ装備班のお世話になるんだ」


「……装備管理はそっちの仕事」


 ほんの少しだけ口を尖らせるギン。


 思わずユズは吹き出しそうになった。


 監督役ではなくなった今も、こうして顔を合わせる機会は意外と多い。


 そのことを口にしたら、お互い少し照れくさくなる気がして、ユズは黙っていた。


「そういえば」


 ふと思い出して尋ねる。


「さっき室長から聞いたよ。あのゾンビ事件、『偶然』ってことで処理されたんだって」


 一瞬だけ。


 本当に一瞬だけ、ギンの視線が横へ流れた。


「……ああ」


 それだけ答える。


「打ち合わせで聞いた」


「何か思うところある?」


「別に」


 即答だった。


「復讐する相手が多かった。それだけの話」


 投げやりな声。


 だが、その奥に何かを隠しているようにも聞こえる。


 もっと聞けば何か出てくるかもしれない。


 けれど、ユズは追及しなかった。


 今の二人は、それくらいの距離感だった。


「……そっか」


 札を抱え直す。


「ワタシは結界の巡回行くから。キミも訓練、遅れないようにね」


「言われなくても」


 ギンは踵を返した。


 数歩進んだところで、ふと立ち止まる。


「——ユズ」


「ん?」


 振り返る。


 ギンは少しだけ口を開いて、


「……いや」


 首を振った。


「何でもない」


 そのまま歩き去っていく。


 訓練場へ向かう後ろ姿を見送りながら、ユズは小さく肩をすくめた。


「……ほんと、変なやつ」


 自然と口元が緩む。


 静かな廊下には、再びいつもの日常が戻っていた。


 世界を揺るがした事件も。


 ギンとの他愛ない会話も。


 今のユズにとっては、そのどちらも、この日常を形作る一場面にすぎない。


 だから、この穏やかな時間が、もうすぐ大きく揺らぐことになるなど——


 この時の彼女は、まだ知る由もなかった。

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