8.義息子の危機
私に付き合ってばかりで、ハインツは仕事が溜まってきているらしい。
さすがに申し訳なくなって、雨も降っていることだし、大人しくしていようと図書室にこもっていた日。
夜も更けて、そろそろ寝ようと本を棚に戻して部屋を出た。
雨の音は激しく、まだ止みそうにない。
雨音に紛れ、すっかり聞き慣れた軽い足音が聞こえてくる。
声をかけられる前に振り返ると、音の主がギクリと足を止めた。
「ふ、ふん、なんだおまえ、まだこの家にいたのか」
まだもなにも、今朝も元気に憎まれ口を叩いてきたのに。
顔を合わすたび「認めない」だの「出ていけ」だの言うくせに、どうにも彼からわざわざ会いにきているようにしか思えないのはなぜだろう。
「リアム様、ごきげんよう。もうオネムの時間なのでは?」
「なっ! バカにするな!」
「ほほ、失礼。お子様は夜こそ元気になるものですわよね」
「なんだと!?」
憤慨するリアムを穏やかにいなす。
この態度が火に油を注いでいるというのは気づいているけれど、反応が面白くてついついやってしまう。
「私はオネムの時間なので、これにて失礼いたしますわ」
「にげるのか⁉︎」
部屋に戻ろうと背を向けた私に、リアムが怒鳴る。
「あなたのお父様に仲良くするなと言いつけられているの。ごめんなさいね」
「べべっ、べつになかよくする気なんかない!」
地団駄を踏んで悔しがる様は、少年らしくて可愛らしい。
ネチネチと遠回しに嫌らしく責め立てるフィオナに比べれば、リアムからの攻撃なんて仔犬がじゃれついているようなものだ。
そういえば、昨日散歩中に寄った公園でなついてきた仔犬、可愛かったな。
人見知りもせず撫でさせてくれて、長いシッポをブンブン振っていた。
飼いたいと言ったら旦那様は聞いてくださるかしら。
さすがに無理かしらね。
そんなことを考えながら、遠ざかるリアムの声を背に部屋に戻る。
「失礼いたします」
「ええ、どうぞ」
扉の音を聞きつけたのか、隣の部屋で控えている侍女がすぐにやってきて、寝間着を渡してくれた。
身支度を手伝われるのも、毎日きちんとクリーニングされた服を用意してもらえるのも、ようやく慣れてきた。
「明日はこちらのお洋服はいかがでしょう?」
「素敵ね。でも少し派手じゃないかしら?」
「奥様は目鼻立ちがはっきりしてらっしゃるので、もっと派手でもいいくらいです」
いつも部屋の隅で目立たない服ばかり着させられていた私にとって、侍女の選ぶ服を着るのは大冒険に等しい。
けれど不思議と、彼女の言う通りの着こなしをすると、鏡の中の私は華やいで見えた。
「旦那様は明日の朝おかえりになられるそうですよ」
「そう。大変ね。またくたびれた顔で戻られるのかしら」
「前回はひどいお顔をしてらっしゃいましたよね」
クスクスと笑い合う。
使用人とこんなふうに話せるのも、ここに嫁いできたおかげだ。
家族にはなんの情もないけれど、追い出してくれたことには感謝している。
「今日はもういいわ、ありがとう」
「それでは失礼いたします。おやすみなさいませ、奥様」
侍女が恭しく頭を下げて部屋を出ていく。
穏やかで順調な日々だ。
このまま私のギフトを知られず、誰も怖がらせることなく、静かに生きていくことができれば。
そう思えるくらいに、私はこの場所を好きになり始めていた。
だけど。
私にこんなギフトを与えた神様は、平穏を享受することを許してはくれなかった。
寝静まった屋敷内に、不審な気配を感じてパチリと目を開ける。
忍ぶような足運び。
ひそめられた呼吸。
鞘からナイフを抜き取る音。
ギフトで強化された私の耳は、注意を向けさえすればこんな微かな音さえ拾い上げてしまう。
侵入者だ。
しかも雨宿りのため迷い込んだ素人ではない。
足取りに迷いはなく、気配はごく小さかった。
静かにベッドを抜け出し、部屋を出る。
足音が向かう先。
三階の、私の部屋とは対角にある場所だ。
そこがなんの部屋か、私は知らない。
ハインツが案内してくれなかったから。
だからこそ気づいた。
リアムの部屋があるのだと。
全速力で駆け出す。
廊下に飾られた花瓶を引っ掴んで音のする方へ走った。
辿り着くのと同時に室内から微かな悲鳴。
リアムだ。
躊躇なく部屋のドアを蹴破る。
ドカンと派手な音が屋敷に響き渡った。
「なんだ⁉︎」
聞いたことのない男の声が、焦ったように上擦る。
振り返った男の顔に見覚えはない。
手にはリアムの細い腕。
侵入者から逃れるためクローゼットに隠れようとしたのを引き摺り出されたのか。
「チッ、見つかったか」
男は面倒そうに吐き捨てて、私を唖然と見つめているリアムの襟首を掴み、ナイフを振り上げた。
女一人程度、放っておいてよいと判断したのだろう。
馬鹿な男。
さっさと逃げれば見逃してあげたのに。
手にした花瓶を、男の顔目がけて投げつけようとして、一瞬躊躇する。
砕けた破片がリアムを傷つける可能性がある。
咄嗟に、花瓶に生けられていた薔薇を一輪つかみ、侵入者に投擲した。
「ぐあっ!」
茎がナイフを持つ手に突き刺さり、侵入者が悲鳴を上げる。
その隙に、リアムが男の手から身を捩って逃れた。
素晴らしい判断力だ。
「てめぇ! いま何をした!?」
激昂して襲い掛かってくる侵入者に、迎撃のため身構える。
「怖がらせるかも」という警告が脳裏によぎるが、すぐに「もう嫌われているしまぁいいか」に切り替わる。
「ハッ!」
掛け声とともに、問答無用で回し蹴りを顔面にお見舞いする。
「がはっ」
男が派手な音を立てて床に倒れ、一度大きくバウンドして静かになった。
「ふぅ……」
短く嘆息して、足元に転がった侵入者を爪先でツンツンとつつく。
反応はない。
どうやら完全に意識はないらしい。
ちらりと部屋の隅を見ると、壁に縋りつくような格好で固まっているリアムと目が合った。
「怪我はない?」
できるだけ優しい声で聞くと、ハッとした顔でリアムがコクコクと頷いた。
やはり怖がらせてしまったみたいね。
苦笑しながらも、ナイトガウンの腰紐を抜いて、気絶している侵入者の手を縛る。
「逃げられないよう庭に埋めてくるから安心して。もう怖くないわ」
笑顔で言うが、リアムの表情は青褪め固まったままだ。
「……怖がらせたのは私ね」
嘆息して笑う。
「明日アレクシス様が帰られたら離婚について話し合うから。大丈夫、きっとすぐに成立するわ」
さて、これからどうしましょう。
侵入者の襟首を掴み上げて思案する。
当然だけど、離婚が成立すればこの家にはいられない。
グランドール家の籍からは外れているし、あの人たちが私の出戻りを歓迎するはずもない。
何より、私があの家に帰りたくないのだ。
ならば、今度こそ一人で生きていく時期がきたのかもしれない。
ここのメイドは私に怯えないから、仕事をじっくり観察できたし会話もできた。
おかげでメイド以外の働き方も、庶民の暮らし方ももう理解している。
森の奥深くで獣のような生き方をせずとも、この身ひとつで人間として暮らしていける。
ああそうだわ、このお屋敷でメイドとして雇ってもらえないか相談してみようかしら。
そう考えかけて、リアムの青い顔がそれを否定する。
継母じゃなくなっても、怪物が近くにいたら怖いままだ。
「短い間だけど、お世話になりました」
「まっ、まって……!」
ぺこりと頭を下げ出て行こうとすると、リアムが慌てて立ち上がった。
「大丈夫、他に侵入者はいないわ」
少なくとも、今の時点で怪しい足音はない。
他の足音は、あちこちから忙しなく聞こえ始めているけれど。
「ちがっ、はなしを聞い――」
「坊っちゃま! ご無事ですか!?」
執事のハインツが血相を変えて飛び込んできた。
続くようにして、住み込みの使用人たちが手に手に武器のようなものを携え駆けつける。
「お、奥様!?」
そうして私の存在に気づいて皆一様に目を丸くした。
いや、正確には私の手に掴まれた侵入者に。
あるいは床に転がる扉に、だろうか。
「お騒がせしてごめんなさい。ご覧の通り、危機はすでに去りました」
言いながら気絶したままの侵入者をハインツに引き渡す。
捕らえた暴漢の始末はこの家の人間に任せたほうがいいだろうと判断したのだ。
貴族の屋敷だもの。実家の反省室のような鍵のかかる頑丈な部屋があるはず。
「ま、まさかこれを、奥様が……?」
信じられないという表情でハインツが私と侵入者を見比べる。
彼らの中で私は「新しい奥様」から「怪物」に変わってしまっただろう。
私に向けられていた優しい目が、恐怖に変わる瞬間は、あまり見たくないのだけど。
これでこの屋敷で働くという選択肢は完全になくなった。
「ええ。隠していてごめんなさいね。ドアを壊してしまったのも……部屋も荒らしてしまって……」
「そんなこと! いえっ、とにかく、リアム様をお救いいただきありがとうございます!」
受け取った侵入者をポイッとその辺に投げ捨てて、ハインツが感極まったようにぎゅっと私の手を握りしめた。
「奥様がいらっしゃらなければどうなっていたことか! ギフトによるものでしょうか? 誠に素晴らしいお力をお持ちで……!」
「あ、ええ、そうね、ギフトでちょっと……」
私からの自衛のためにおもねっている様子はない。
本気の賛辞に戸惑ってぎこちなく頷いて周囲を見ると、皆ハインツと似たような、感謝と羨望の表情で私を見ていた。
「ありがとうございます奥様!」
「間に合わずリアム様に何かあったらと……お一人で対処させてしまい申し訳ございません!」
「奥様も怖かったですよね! なのに一人で飛び込んで……なんて勇敢な方ですか!」
彼らは堰を切ったように私への賞賛を口にする。
「あの、そんな大したことは……というか、怖くない、の?」
「はい! 奥様がやっつけてくださいましたので!」
質問の意図とは違う返答を、メイドの一人が頬を紅潮させながら言う。
「そ、そう……」
予想外の展開に呆然とする私のもう片方の手を、小さな手がぎゅっと握った。
リアムだ。
暗殺未遂のショックから立ち直ったのだろう。
リアムは、口をモゴモゴしたあとでムスッとした表情で私を見上げた。
気のせいか、うっすらと目元が赤い。
「……たすけてくれて、ありがとう」
ぶっきらぼうな口調だ。
照れくささをごまかすためだろうか。
そのいかにも子供らしい振る舞いに、不覚にも胸が高鳴ってしまった。
「いえ、当然のことをしたまでで……」
つられたように頬に熱が集まっていく。
歯切れ悪く返すと、リアムが小さく「へへっ」と笑った。
「さぁ奥様、あとのことはわたくし共でやっておきますので、お部屋にお戻りくださいませ」
「あ、ええ、ありがとう。お願いね」
片付けも侵入者の処遇も、あとはお任せくださいというハインツたちに甘えて自室に戻る。
足取りが妙にフワフワしていた。
ベッドに横たわり目を閉じる。
「もしかして、出ていかなくてもよさそう……?」
一人小さく呟く。
リアムも、ハインツたちも、誰も私を恐れていなかった。
都合のいい思い込みだろうか。
だとしても、グランドール家にいた頃とは明らかに反応が違っていた。
たとえそれが、一時的に恐怖心より興奮や感謝が上回っていただけだとしても。
「きっと、明日にはまた対応も変わるわね」
自分に言い聞かせるようにあえて口に出す。
変に期待を持ってはいけない。
そんなもの、子どもの頃にとっくに捨てたのだから。
それにしても、なぜリアムは襲われたのかしら。
都合のいい考えを打ち消すように、目を閉じて思う。
彼には常に護衛がついていた。
なのにその護衛は、ハインツたちが飛び込んできた後も姿を見せなかった。
普通、護衛は対象の隣室に控えているはずだ。
本来であれば、私より先にあの場に駆け付けられたはず。
それから、駆けつけた使用人たちはこの世の終わりみたいな顔をしていた。
あの時点では大きな物音がしたという、それだけの情報しかなかったはずなのに。
リアムが狙われるのを知っていたのだろうか。
分からない。
きっと、信頼関係のない私にだけ知らされていない事情があるのだ。
そう考え至った瞬間、浮き足立っていた心臓は落ち着きを取り戻した。
同時にとろりと眠気が訪れる。
どうせ私には関係ないことよ。
明日には離婚の話し合いがまとまって、この屋敷を出て行くのだから。
だから、教えてもらえなくていい。
リアムが。
リアムが、また襲われるようなことになったって。
私の手に遠慮がちに触れた小さな熱を思い出し、ぎゅっと拳を握りしめる。
さっきまであったはずの眠気は、いつの間にかどこかへいってしまっていた。




