7.無駄遣い
グランドール家のために努力して夫の信用を得る義理はない。
そう開き直ってしまえば、いちいち突っかかってくる人間がいないクロイツ邸での生活が快適で仕方ない。
滞在開始から一週間、毎朝清々しい気持ちで目覚めている。
この屋敷では、怒鳴られることも怯えられることもない。
私の悪口を吹聴する人間もいないし、理不尽に閉じ込められることもない。
何をするにも自由だ。
使用人たちの間に漂っていた緊張感も、笑顔を振りまいているうちに緩んでいった。
捏造した暴力沙汰を吹聴する人間さえいなければ、怯えられることもないのだと今更ながらに実感する。
夫のアレクシスは宣言通り不在がちだし、侯爵夫人として課せられた仕事もない。
唯一無理やりに欠点を挙げるとすれば、義息子のリアムのことだ。
彼とは部屋が離れているわりに廊下ですれ違うことが多々あるが、挨拶をしても「フン!」とそっぽを向かれてしまう。
でもそれだけだ。
こちらを陥れようとしたり罵詈雑言を浴びせてきたりはしない。
「あらあら」と大人な対応をすれば、リアムは相手にされていないと感じるのか、腹立たしげに「ばーか!」と可愛らしい捨てゼリフを残して去っていく。
残念ながら痛くも痒くもない。
これまで何万倍もえげつない罵倒を、実の妹から散々浴びてきたのだから。
夫より長い時間そばに居る老執事ハインツから監視されているという事実はあるが、両親のように私の一挙手一投足に文句を言うこともないし、何かを強制されることもない。
なにより彼は親切だ。
私が無知を晒しても、嘲笑も叱責もなく丁寧に教えてくれる。
私の希望のほとんどを叶えてくれるし、いつでも領内を見たいと言えば馬車を手配して街の案内までしてくれる。
こんなにわがままに過ごしたのは人生で初めてだ。
「今日も街に出ていたのか」
「あら、お戻りでしたの?」
庶民の生活の調査がてら観光を楽しんで屋敷に戻ると、ちょうど王都から帰ってきていたらしいアレクシスに出迎えられた。
初日の顔合わせ以降、夫とは会話らしい会話はない。
屋敷にいても、執務室にこもって仕事をしているようであまり顔を合わせる事もない。
すれ違いざまに挨拶をする程度だ。
互いに歩み寄る気もなく、いつだってよそよそしい空気のまま、形だけの夫婦を続けている。
「毎日忙しくていらっしゃるのですね。もう少し休まれたらいかが?」
「君もずいぶんと忙しそうだ。今日は宝石屋にでも行ったのか?」
私の当たり障りないセリフに、アレクシスが皮肉げに笑う。
珍しく私の行動に口出しをしてきた彼に、思わず笑顔になる。
「聞いてくださる!? 今日は月に一度の行商市をハインツが案内してくれたのです!」
「あ、ああ、そういえば今日は月初めの大市が立つ日か」
宝石という単語に反応して勢い込んで話し始めると、アレクシスが気圧されたように仰け反った。
だけど構っていられない。
会話の糸口を与えた方が悪い。
だって私は聞いて欲しいのだ。
「見たこともないものがたくさんあって! でもハインツはなんでも答えてくれるのです! 物知りですよね!」
「おち、落ち着けっ、おいハインツ、なんとかしろ!」
掴みかかる勢いの私に夫は戸惑い、ハインツに助けを求める。
「奥様、旦那様は帰られたばかりでお疲れです。お着替えもまだなのですよ」
「え? ああ、そうね。ごめんなさい」
柔らかくなだめられ、確かに玄関で話すことではなかったと反省して一旦離れる。
アレクシスがあからさまにホッとした顔になった。
「奥様もです。着替えられた後、談話室でお話しされたらいかがですか」
「そうね! そうするわ!」
「ハインツ!?」
慌てるアレクシスに「では後ほど!」と念を押すように言い置いて、急いで部屋に戻り着替える。
休む間もなく談話室に入ると、そこには不満そうなアレクシスと、楽しそうな笑いを堪えるハインツが待っていた。
「――それで、ノクタルという宝石がとても美しくて」
出されたお茶に手を付けるより先に、興奮のまましゃべり続ける。
露店の宝石屋で見つけた時は心が躍った。
実家では見たことがない、珍しい色の石だ。
ハインツに聞いても、珍しく答えられなかった。
それで店主にこの石はなんですかと質問したのだ。
「はぁ、やはり無駄なものを……ハインツ、止めろと言っただろう」
「え? いえ、買ってはいません」
「は?」
否定すると、アレクシスが間の抜けた声を上げる。
「この宝石は太陽の光を蓄積して、暗いところで光るというのです」
「……それで?」
「灯り用の油が高騰しているとメイドたちが話しているのを耳にしました。代用して油を節約できるかも」
「ふむ……石の価格は? 油より高いのでは話にならん」
つっけんどんな態度は変わらないが、うんざり顔から少し真面目な表情に変わる。
「それがトランという国ではこの宝石はありふれたもので、売るなんて考えたこともないと」
「売り物ではないのか」
「ええ。店の方が所持していたものが、とても綺麗だったので色々聞いてみました」
「となると価格設定自体から……ハインツ、おまえはどう思った」
「こちらが誠実に対話に臨めば、魅力的な商談になるかと」
「店主の情報は」
「押さえました」
さらりとハインツが頷く。
一体いつの間に。
私と店主が話している間、ハインツは横でニコニコ聞いていただけだったはず。
海外から月に一度、行商市のために来るだけの人間の情報をどうやって。
ぽかんとした私に気づいて、ハインツがミステリアスに微笑みパチンとウィンクをした。
あまり深く聞かない方がよさそうだ。
「他に有益な情報は?」
さっきまで面倒な顔をしていたアレクシスが、いつの間にか少し前傾姿勢になっている。
「へ? ええと、有益かどうかは分かりませんけど」
促されるまま、興味をそそられた物について話していく。
グランドールの屋敷の中しか知らない私にとって、クロイツ領で見るもの全てが新しい。
彼らからすれば取るに足らないようなものでも、珍しくて面白いものばかりだ。
『奥様はわたくし共とは違う着眼点をお持ちのようで』
なんにでも興味を示す私に、ハインツはいつも面白そうに言って私の疑問を解消してくれた。
「――で、トゥーリスで仕入れたという糸は色が鮮やかで、それで織られた布は柔らかくてとても丈夫なんですって」
「それで? それを見て君はどう感じた」
アレクシスもそうなのか、意外なほど私の話を真面目に聞いてくれている。
「リズリーク黒岩地帯はいつも足場と視界が悪いと言っていたでしょう? その布で作業用の服を作って作業員に配れば、お互いが目立つし怪我も減ると思うのです」
人間の皮膚というのは、私が思う以上に傷つきやすいものらしい。
フィオナの骨は階段を落ちた程度で折れたし、街を走る子供たちも転んだら血まみれになる。
ならば常に身体を保護するものを纏うべきだ。
そう、たとえば私の皮膚くらい丈夫な布で。
「ドレスの素材に、ではないのだな……なるほど、検討しよう」
アレクシスが、私の感じたことや考えたことに興味を示してくれる。
最初はただ聞いてくれるだけでいいと思っていたのに、これが案外楽しかった。
なんでも頭ごなしに否定され、話すことすべて脅しだ威圧だとまともに会話もしてくれない家族だった。
だから自分の言葉をきちんと聞いて、意見を返してくれるのが嬉しいのだ。
本で得た知識も、家庭教師に怯えながら教えられた教養も、活かせる場所がなければすべて無駄だ。
得た知識を結び合わせて何かをひらめいても、私の話を真剣に聞いてくれる人なんてどこにもいなかった。
ハインツも茶化すことなく聞いてくれるが、執事と言う立場上一歩引いたところがある。
その点、アレクシスは形式のみとはいえ夫婦なのだ。
対等に話ができるということが、こんなに楽しいことだなんて考えたこともなかった。
「なかなかいい視点だ。俺もたまには街に出ないといかんな」
そして、褒められることも。
「無駄なことと決めつけてすまなかった」
まして、謝られることなんて。
「いえ、あの、私はただ心から観光を楽しんだだけで……」
らしくもなく慌ててしまう。
ここに来てから、初めて経験することばかりで調子が狂ってしまう。
それはアレクシスも同じなようで、なんだか複雑そうな表情で私を見つめていた。




