4.檻の外の世界
「さて、どうしようかしら」
しばらく街道沿いに歩いたところで、トランクの中を検め呟く。
両親が用意したという旅支度は、無知な私から見ても圧倒的に足りていなかった。
クロイツ領までの大まかな地図。
数日分の粗末な着替え。
おそらくだが、最安の馬車と宿でギリギリの路銀。
ここに果たして食費は含まれているのだろうか?
およそ無事婚家にたどり着かせようという気概を感じられない。
いっそ野垂れ死んでしまえばいいとでも思っているのか。
きっと普通の貴族令嬢だったら間違いなくそうなっていただろう。
だけどあいにく、私には強力なギフトがある。
馬よりも速く強靭な足で、山も川もモノともせず駆け抜けた。
街道も迂回路も無視して、クロイツ領までひたすら真っ直ぐに走った。
風を切り、飛ぶように。
「……あはっ! あはははは!」
知らず、笑い声が漏れていた。
全力で走るのは生まれて初めてだった。
楽しくて仕方ない。
全力で走る気持ち良さに、どうしてもっと早くこうしなかったのだろうと後悔するほどに。
途中の街にも立ち寄らず、森の奥深くで水浴びをして、木の上で眠れば野盗も獣も怖くなかった。
食事だけ、何を食べて何を飲めば安全なのか分からなかったから、お腹が空いた時だけ人里へ降りていった。
まるで野生の獣だ。
恥を忍んで道行く人に聞けば、食べ物の買い方を教えてもらえた。
彼らは血の繋がった家族よりよほど親切だ。
お腹が満たされたらまた街を出て、走る。
神様に与えられた力を極限までセーブして、ずっと息を潜めるように生きてきた。
誰の目を憚ることもなく走り、飛び跳ね、力を解放する喜びにうち震えながら、何度このまま森で暮らしてしまおうと思ったことか。
けれど食事だけでもお金は着実に減っていく。
お金を稼ぐ方法を知るまでは。
いいえ、せめて自分で安全な食べ物を用意できるようになるまでは。
嫁ぎ先で大人しくしている必要がある。
殺されない自信はあるけれど、殺されそうになった時点でおしまいだ。
私は夫を行動不能にするしかなくなり、追い出されるか処刑されることになる。
またしばらく耐え忍ぶ生活が始まるのは憂鬱だったけれど、怪物だと知られていないのであれば、きっと今までほどはひどくはないだろう。
それに初対面の私に、情報を制限をするような面倒なことはしないはず。
夫となる人に大人しく従い、虎視眈々と自立を目指し生きるための知識を蓄えていけばいい。
「うん、それが一番だわ」
そう開き直ったらますます足が軽くなり、予定より早くクロイツ領に到着してしまった。
◇◇◇
「すごい……」
思わず呆けた声が出てしまう。
大きなお屋敷だ。
グランドール家よりもずっと広い。
歴史ある名門貴族らしい、重厚で上品な建物に、圧倒されてしまう。
到着予定より早く着いてしまった。
もちろんお出迎えはない。
「まぁ、遅れるよりは早い方がいいわよね?」
社交界に興味を持たれては大変だと、貴族界の常識を教えてもらえずに育ってしまった私は、何が無礼に当たるかもわからないまま髪と服の乱れを直し、ノッカーを控えめに鳴らした。
しばらくして、ドアが開く。
「おや、どなたでしょう」
「エリシア・グランドールと申します。グランドール伯爵領より参りました」
「なんと!」
中から出てきた老紳士に家紋入りの指輪を見せながら名乗ると、彼は驚いたように目を丸くした。
「これはこれは、いや失礼いたしました、予定では三日後と伺っていたものですから……」
困惑して慌てた様子の紳士に、どうやらやらかしてしまったようだと察するが手遅れだ。
「出直した方が良さそうですね」
失点を取り返そうと先んじて言えば、老紳士は「とんでもない!」とさらに慌ててしまった。
「お出迎えの準備が整っておらず心苦しいですが、あなた様はすでにクロイツ侯爵家の奥方様なのです。どうかご遠慮なさらず」
恭しく言って、若干落ち着きを取り戻したのか、老紳士が扉を大きく開いてくれた。
そうか、普通お客様が来るときは前もって準備が必要なのか。
歓迎される立場というのが初めてで、すっかり失念していた。
じわりと背中に冷や汗をかきながら、笑顔を保つ。
「申し遅れました。わたくしはクロイツ侯爵家の執事を務めております、ハインツ・ハイネマンと申します」
ハインツと名乗った老紳士は深く腰を折り、私を屋敷内に招き入れる。
「よろしく、ハインツ。恥ずかしいけれど、私は知らないことが多いみたい。色々教えてもらえると助かるわ」
「奥様は謙虚でいらっしゃるのですね」
苦笑しながら我が身の不明を詫びると、謙遜と受け取ったのか、ハインツが感心したように眉を上げた。
謙虚どころか、宿代がもったいないからと予定より早く押しかけた図々しい女なのだけど。
「ちょうど旦那様が王都から帰られたタイミングでようございました。どうぞこちらへ」
そのまま応接室に通される。
ハインツの指示でメイドたちが慌ただしく動き回る。
「特別のものをご用意する予定だったのですが、手配が間に合わず申し訳ありません」
彼女たちは恐々とした表情で頭を下げてきた。
「ありがとう。いい香りね。それにこのマドレーヌ、とっても美味しそう」
やはり早く来すぎるのも良くなかったのね。
常識のなさを深く反省しながらも、笑顔で礼を言う。
「お気を使わせてしまい申し訳ありません! 次からは必ず……!」
なんとなく、メイドたちが大げさなほど謝ってくるのが気にかかった。
こちらに非があるのに、まるで早く来るのを察せられなかった自分たちが悪いみたいに。
もしや私の結婚相手は、使用人に言いがかりをつけてひどいことをする人間なのだろうか。
だって王族でさえ殺すような人なのだ。
その可能性は高い。
私のせいでこの親切な人たちが、人でなし宰相様とやらに罰されることになったら大変だ。
あら、鬼畜宰相だったかしら?
なんでもいいけど。
もし体罰でも与えようものなら、縛り上げてでも止めなくては。
そんな決意を胸に、紅茶を一口いただいたところで。
「……ずいぶん早い馬を使ったのだな」
不機嫌を隠そうともせず、背の高い男が、入ってくるなり挨拶もなくそう言った。




