3.新しい飼い主
侯爵様との婚約なんて。
いきなりどうして。
あまりに急すぎるし、そんな良縁、フィオナが喜んで横取りしそうなものなのに。
だいたい、お父様は私を誰の目にも触れさせず生涯を終えさせるつもりではなかったのか。
「勘違いするなよ。お前は体裁を整えるための後妻だ。挙式は不要と伝えたら、お忙しい侯爵は大層お喜びだった」
浮かれては困ると、釘を刺すようにお父様が言う。
なるほど。
後妻で挙式なし。
離婚なのか死別なのかは分からないけど、その条件ならたしかにそれはフィオナが避けるはずだ。
いつだって自分が主役じゃないと気が済まないから。
だとしても、私を嫁がせる理由はやはり分からない。
怪物を外に出せば、もう制御なんてできなくなってしまうのに。
「社交界に疎いお姉様に教えてさしあげますわ。クロイツ侯爵の奥様は亡くなったの」
私の無言の疑問に気づき、フィオナが嬉しそうに口を開いた。
「こらフィオナ。怖がらせたら可哀そうでしょう」
お母様がたしなめるように言うが、本気で止める気はなさそうだ。
目にはどこか嗜虐的な光が見える。
「教えてあげない方が可哀そうよ。ねぇ?」
「ええそうね。失礼のないように、教えてくださる?」
妹にねっとりと同意を求められ、素直に頷く。
侯爵の年齢すら知らないのだ。
後妻というからにはかなり年上なのだろうけど、さすがにお父様よりは若いだろうか。
「アレクシス・クロイツ様はね、通称『王族殺しの残虐宰相』という異名があるの」
得意げに語るフィオナに、お父様は「こらこら」と窘めるように笑い、お母様は「ああ恐ろしい」と芝居がかった仕草で自分の身体を抱きしめた。
それで合点がいく。
フィオナに大怪我をさせた――濡れ衣だが――事で、もう自分たちの手に負えないと判断して、怪物の手綱を握る役目を別の怪物に押し付けることにしたのだ。
あわよくば、飼い主の手を噛んで殺されてしまえとさえ思っているかもしれない。
「そう、アレクシス・クロイツ様とおっしゃるのね。それで宰相? 優秀な方だわ」
ではやはりかなりお年を召した方なんだわ。
ふむふむと頭の中にメモしながら感心する。
爵位だけでなく、宮廷での役職もお父様よりずっと上だ。
それでよく、大して歴史もない我が家との婚姻を受け入れたものだ。
「お姉様って本当に頭が悪いのね。王族殺しの意味が分からなかったの?」
苛立ちを隠さず、フィオナが唇を歪めて言う。
「王族を殺したという意味でしょう? 残虐は無慈悲でむごたらしいことね。それがどうかしたの?」
「くっ……!」
私が答えると、フィオナは悔しそうに歯噛みした。
おそらく私を怯えさせたかったのだろうけど、だからなに? という感じだ。
異名の通りに王族を殺して回っていたのだとして、そしてそのことで処罰されることなく宰相の座についていられるほど誰も逆らえない特殊な立場だったとして、所詮ただの人間。
軽く返り討ちにできる自信がある。
「まっ、前の奥様もっ、虐待まがいの暴力を受けて殺されたそうよ!」
へこたれずに、フィオナが私を動揺させるためのカードを切る。
脅かしたかったのだろうけど、気の毒な前妻さんのことを引き合いに出す外道ぶりに呆れるばかりだ。
「そう、私と同じね」
白けた顔で言うと、お父様がサッと頬を赤らめた。
小さい頃、何度も殴る蹴るの暴行を受けてきた。
力加減を教えるためだとか、言っても聞かないからだとかもっともらしいことを言っていたけれど、あれはただの暴力だ。
「貴様……っ!」
「何よその言い方は! あなたが恥をかかないよう躾けただけよ!」
「だからお前はダメなんだ! 王族殺しのもとで親のありがたみを思い知るがいい!」
お母様の主張に勇気付けられて、お父様が強い口調で言う。
誰もあなたたちにやられたなんて言っていないのに。
この様子じゃ、いきすぎている自覚はあったのね。
よかった。
無自覚であれなら、外でも何かやらかしていそうだもの。
一応その辺の分別があったのは意外だわ。
「……分かりました」
短く嘆息して立ち上がる。
私をクロイツ侯爵家に嫁がせたがる理由も分かったし、どうせ反対したところで意味はない。
「まとめていただいた荷物は玄関ですか?」
「え? ええ……」
私の質問に、お母様が戸惑ったように頷く。
もっと拒絶したり嘆き悲しんだりするのを期待していたのだろう。
「も、物分かりが良くて何よりだ。私たちの教育の賜物だな」
お父様も肩透かしを食らったようで、頬を引きつらせながらそう言った。
なんてばかばかしい茶番なのだろう。
呆れながら玄関に向かうと、そこにはトランクがひとつ。
およそこれから嫁ぐ娘のものとは思えないけれど、異論はない。
自分で部屋にあるものをかき集めても、どうせこれ以上にはならないから。
ひょいと持ち上げ玄関を出ると、両親と妹が現れた。
わざわざ見送りにきてくれたのかしら。
そんなありえないことを思っていると、お父様が片足を上げた。
「二度と戻ってくるなよ!」
「きゃっ!」
文字通り屋敷から蹴り出されて悲鳴を上げる。
「ふんっ」
地面に倒れた私を見て、お父様は満足そうに笑った。
避けることも微動だにしないこともできたけれど、こんなパフォーマンスで終わるなら安いものだ。
「ひどい……どうしてこんな……」
まったく痛くはないが、痛がるふりをして蹴られた場所を押さえる。
「悲しいですわお父様。悲しみのあまり……」
視線を上げて、真っすぐにお父様を見る。
「……目に映るすべてを破壊してしまいそう」
「ひっ、ヒィッ!」
「やめてぇぇ!」
笑顔で言うと、お父様たちは慌てふためいたように屋敷の中に逃げていった。
「まったく、最後まで……」
「お寂しゅうございますわ、お姉様」
裾についた土を払っていると、愉悦を隠そうともしない顔でフィオナが言った。
私の服より数段高価なドレスを着ているが、包帯と松葉杖のせいで台無しだ。
「そうでしょうね。憂さを晴らす相手がいなくなってしまうんだもの」
微笑で返すと、フィオナのニヤケ顔がぎゅっと歪んだ。
「生意気な口を聞いていられるのも今日までよ」
悪党の捨て台詞みたいなことを言って、邪悪に笑う。
よほど私の結婚相手とやらは恐ろしい人物らしい。
「バイバイ、怪物さん」
常人離れした怪力を持つ姉から、柔らかで美しい妹を守るため、過剰なほど大切にされてきたフィオナ。
それを自分の特権だと疑いもせず、私を虐げてきた。
だけど両親の、グランドール伯爵家の庇護は、もう私にはない。
ならもう大人しくしている必要がないということに、妹は気づいていないのだろうか。
「……自分だけは無事と高を括っていたみたいだけど、私たちはもう姉妹じゃない」
表情を消して、正面から睨みつける。
「その言葉の意味をよく考えて」
あなたはもう非攻撃対象ではなくなるの。
そう、低い声で忠告する。
「なっ、なによ、脅しのつもり⁉︎」
強がってはいるが、フィオナの顔は青褪めている。
その怯えた顔に少し溜飲が下がって、なんの愛着もない屋敷から離れて歩き出した。
すぐに背後から、悔し紛れの「ばーか!」という幼稚な声が聞こえて足を止める。
振り返らず、敷地にある巨木に拳を打ち付けた。
熟れた実がいっせいに落ちる。
私はそのうちのいくつかを受け止め、一つにかじりついた。
はしたないけれど、それを咎める人間はもうここにはいない。
「ぎゃんっ」
無様な悲鳴が背後に聞こえた。
狙い通りフィオナの頭に直撃したことを知り、ニヤリと笑う。
残虐宰相?
上等よ。
力づくで支配しようとする気なら、受けて立ってやろうじゃない。
暗雲立ち込める天気の中、とても晴れやかな気持ちで新たな人生の一歩を踏み出した。




