24.夫婦になるということ
こうして誰かに昔の話をしたのは初めてだった。
不思議と心が軽くなっている。
「そうだったのか……シュタイン卿には今度会ったときに礼を言わねばならないな」
「お礼を? あなたが先生に?」
今の話でなぜ、と問おうとして、アレクシスの手が私の頬に労わるように優しく触れた。
「大切な妻の心を守ってくれた。そんなことも知らず、失礼な態度を」
「そんな、大げさですわ」
妙に心臓が騒いで、ごまかすように苦笑する。
いつの間にかリアムの頭を撫でる手が止まっていた。
「まぁ、だからといって愛称呼びはやはり許しがたいが」
ムスッとした顔で言われて面食らう。
よほどディートリヒの呼び方が気に食わなかったらしい。
「どうしてそんなにお嫌なんです?」
妙なこだわりに、思わず笑いながら問う。
きっとディートリヒの中で私は幼い少女のままなのだろう。だから幼少期の呼び方だったのだ。
ただそれだけのことなのに。
「……ヤツの方が君と親しいと言われているようで腹が立つ」
少しの逡巡の後、アレクシスがいじけたような口調で言う。
「そ、そうでしたの……」
私はじわじわと頬が熱くなっていくのを感じながら、それだけ言うのが精いっぱいだった。
なんとなく気まずい沈黙が落ちて、リアムの頭を撫でるのを再開させる。
「……んん、えりぃ、こっちだよ……」
私に街を案内する夢でも見ているのだろうか。
むずかるように身じろいで、リアムがむにゃむにゃと寝言をこぼす。
この子は夢の中までも私と一緒にいてくれるのだ。
そう思った瞬間、幸福感が胸を満たして自然と笑顔になる。
「ねぇ、アレクシス様」
流れる空気はぎこちないままだけど、どうしてもこれだけは言いたくなって真っすぐにアレクシスを見る。
「先生はあの時、たしかに私が怪物になるのを止めてくださいました」
それは大恩を感じるには十分の、貴重な出会いだったけれど。
「だけど、人間にしてくれたのはあなたとリアムなんです」
感謝を込めて伝える。
ディートリヒのおかげで破壊衝動は収まった。
力の使い方も、理不尽への対処法も覚えた。
でも、人生に夢や希望は見出せなかった。
誰も信用できなかったし、誰にも信用してもらえなかった。
このままではきっとまた怪物になってしまう。
ずっとそんな予感があった。
なんのために生きているのか。
なんのために理不尽を受け入れ大人しくし続けているのか。
分からなくなり始めていた私に、守る対象ができた。
そのままの私を受け止めて、妻でいることを許してくれた。
話を真剣に聞いてくれて、笑い合えて、居場所をくれて。
彼らが生きている限り、私は怪物になんてならない。ただギフトが強力なだけの人間でいられる。
そう確信できた。
いつの間に私はこの人にこんなにも心を許していたのだろう。
家族からの扱い、妹との確執、反省室、結婚に至るまで。
家族に疎まれていたなんて誇れることではないのに、告げることに躊躇はなかった。
今まで誰にも話す気はなかったのに、なぜか彼には聞いてほしいと思ったのだ。
「喜ぶべきところではないかもしれないが。君にそう言ってもらえて嬉しい」
言いづらそうに、けれど微かに喜色を滲ませてアレクシスが口を開く。
眩しそうに目を細めて、それから柔らかく微笑んで、温かな声音で言った。
「だが俺にとって君は、出会った時からずっと優しい『人間』だったよ」
とくん、と。
心臓がひとつ、高い音を立てた。
「……お返しに、と言っては何だが、俺もひとつ、話しておきたいことがある」
狼狽しかけた私が、おかしなことを口走るより前に、アレクシスがそう切り出した。
いつになく神妙な声音だった。
「実は、俺のギフトのことなんだが」
「……教えていただけるの?」
思わぬ申し出に、またひとつ心臓の音が調子を外す。
「ああ。むしろ今更になってしまって申し訳ない」
「いいえ仕方のないことです。だって私、怪しかったですもの」
「いや、それは、うん、なんというか……」
会ったこともない結婚相手。
しかもアレクシスにとって印象がよくないらしいグランドール家の娘。
警戒するのは当然だ。
だからこそ無理に聞き出すことはしなかったし、これからもずっとそれは続くと思っていたのに。
「ふふ、お気遣いなく。家族との関係は先ほどお話しした通りですので」
気まずそうなアレクシスに、妙に浮ついた気持ちで返す。
それほどに、私は彼のギフト開示が嬉しいのだ。
「ギフトはごく一部の人間にしか開示していない。だから君も、他言はしないでほしい」
「もちろんですわ。尋問されても口を開かないと誓います」
よほど取り扱いが難しいギフトなのだろうか。
念を押すように言われ、ごくりと喉を鳴らして頷く。
「いや、それはさすがに喋っていい」
アレクシスが苦笑する。
それからひとつ深呼吸をして、真っすぐ私を見た。
「俺には、嘘を聞き分けることができる」
「嘘を?」
「ああ。相手が嘘をつくと、その声に別の音が重なって聞こえるんだ」
彼は自分の耳に軽く触れながら、私にわかりやすいようにだろう、言葉を選ぶように続けた。
「おそらく、ついた嘘の裏で真実の声が鳴るのだろう。真実とかけ離れているほどひどい雑音になる」
「まぁ……」
思わず言葉を失う。
だとしたら嘘であふれたこの世界は、彼にとって相当に生き辛いのではないか。
「役職柄、便利なギフトではあるがな」
私の表情をどう取ったのか、アレクシスは苦笑する。
「どれだけ高潔な人間に見えても、その裏の汚職をこの耳が勝手に拾い上げてしまう。どれだけ部下が従順に振る舞っても、人生を捧げたい人間が別にいるのだと分かってしまう」
王弟殿下しかり、彼の従者しかり。
国家への、自分への裏切りを、アレクシスは何度目の当たりにしてきたのだろう。
「……ああ、だからフィオナの時も」
ようやく腑に落ちて呟く。
夜会でフィオナの作り話を聞かされていたとき。
アレクシスが脂汗を浮かべ、今にも吐きそうな顔をしていたのは。
「あれはひどかったな」
心底うんざりした様子でアレクシスが顔をしかめる。
彼に聞こえていた不協和音とは宮廷楽団の音楽のことではなく、フィオナが紡ぎ出す荒唐無稽なシナリオのことだったのだ。
「一から十まですべてが嘘だった。一言発するごとに耳障りな雑音が幾重にも重なる。あれほど不快な声は生まれて初めてだ」
「それなのに私のことを庇ってくださったのね」
あんなに顔を青くしていたくせに。
自分の身を削ってまで私を守ろうとしてくれたのだ、この不器用な人は。
「嬉しかった。あんなふうに盾になってもらえるなんて、思いもしませんでしたわ」
「大して役には立たなかったが」
改めて感謝を込めて言うと、アレクシスは情けない顔で苦笑した。
「いいえ。とても心強かったですわ」
心からの言葉だ。
彼が私の味方だと明確に示してくれたおかげで、私はフィオナに立ち向かうと決められたのだ。
ギフトで今の言葉に嘘がないと分かったのだろう。
アレクシスは気恥ずかしそうに視線を逸らした後で、「ならばよかった」と小さく呟いた。
「夫婦だからな。いつだって君の力になりたいと思っているよ」
「初めてお会いした時からは考えられませんわね」
照れくささをごまかすように、笑いながら出会った日のことを揶揄する。
「あれは、その……君を誤解していたとはいえ、ずいぶんと失礼な態度を取ってしまった」
「誤解?」
グランドール家の手下、という誤解だろうか。
「覚えていないか。君が、初めてこの屋敷に来た日のことだ」
「ええとどうだったかしら……」
言われて記憶を遡る。
「予定より早い到着を怪しんだ俺はこう言った。『ずいぶん早い馬を使ったのだな』と。覚えているか」
「懐かしい。そんなこともありましたわね。それで私は確か……」
思い出した。
馬車を使わず自分の足で山を越え、迂回路を短縮して一直線にクロイツ侯爵領に辿り着いたあの日。
「君はこう答えた。『早く、あなたにお会いしたくて』と」
そうだった。
あの日私は、自分のギフトを隠そうとして、世にも白々しい世辞をひねり出したのだ。
「……なるほど。合点がいきましたわ」
それは私が悪い。明らかに。全面的に。
「ひどい雑音がした。それで俺は、また嘘つきが結婚相手かとうんざりしたんだ」
また、という言葉に引っ掛かりを覚えながらも、自分の軽はずみな言動が、嘘に傷つけられ続けた夫の心に、新たな傷を刻んでしまったのだと知って後悔の念を覚える。
「ごめんなさい、深い意味はなかったの」
「ではなぜあんな嘘を?」
焦って言い訳をする私に、アレクシスが縋るような目を向けてくる。
「君がグランドールの意を汲むものでないのは共に暮らしていくうちにすぐ分かった。それ以外で嘘をついたこともない。君の声はいつも澄んだ清流のようで、聞いていて心地がいい。何度も休憩を口実に会いに行くほどに。だからなおのこと不思議だった。なぜあの時嘘をついたのかと」
じわりと頬が熱くなる。
アレクシスの表情で純粋に疑問の答えを欲しているだけだと分かるのに。
なんだかとんでもないことを言われている気がして落ち着かなかった。
「あれは、その、本当は馬なんて使っていなかったと説明するわけにもいかず……」
らしくもなく、歯切れの悪い説明になってしまう。
「馬を使っていない?」
「……走ってきたんです。自分の足で」
しかも初めて味わう解放感に浮かれて、高笑いしながら。
ぽかんとしたアレクシスが、「なるほど、ギフトを隠すために……」と呟きうつむく。
しばらく沈黙が落ちて、あまりにくだらなすぎて呆れさせてしまっただろうかと不安になり始めたところで。
「……っく、ははっ! あははっ!」
肩を震わせ始めたアレクシスが、とうとう堪えきれずに笑い声を上げた。
「本当にすごいな君は!」
それから目尻に涙を溜めながら、感心したようにそう言った。
「グランドール伯爵領から? 馬車よりも早く? 素晴らしい。この目で見たかった」
予想外の反応に、今度は私がぽかんとする番だった。
「ディートリヒが欲しがる理由がよく分かる。絶対に渡さないが。最高の師をもってリアムは幸せ者だな」
興奮気味に言って、眠るリアムの頭をぐしゃぐしゃとかき回す。
「ぅうん……」
リアムは眉間にシワを寄せながら、うめき声をあげてアレクシスの手を払いのけた。
起きる気配はない。どうやらよほど深く眠っているらしい。
「……怒ってらっしゃらないの?」
「怒る? なぜだ。君は自分の立場を守ろうとしただけだろう。あんな家族がいれば無理もない」
あっけらかんとした顔でアレクシスが言う。
嘘を責める気は微塵もないらしい。
「これですっきりした。いやそれにしてもあの距離を身一つで……っくく」
「……そんなに笑わなくてもよろしいのではなくて?」
アレクシスの笑いにつられて、私自身も自分のひどい嘘に笑いそうになりながら反論する。
「すまない、あまりにも規格外で」
「ひどいですわ!」
「ははは、褒めてるんだ」
私たちはしばらく笑い合い、それから穏やかな沈黙が馬車の中に満ちていく。
静かに交わす視線は温かく、信頼と親愛を感じることができた。
過去も、秘密も、抱えているものも。
お互いの手の内を何もかも晒した上で、それでもまだ隣にいたいと思っている。
ああ、そうか。
ようやく今、私たちは本当の夫婦になれたのかもしれない。
規則正しい馬車の揺れに身を委ねながら、膝の上の愛しいぬくもりにそっと触れる。
もうとっくに一人で生きていけるだけの知識は身についたのに、この穏やかな時間がずっと続けばいいのに。
柄にもなく、そう願ってしまった。




