23.ディートリヒの功績
控えの一室へ戻ると、リアムはソファの上ですっかり寝入っていた。
体格のいい騎士たちが、そのあどけない寝顔を取り囲むようにして見守っている。
屈強な男たちが一人の幼子を起こさぬよう息を潜めている光景は、なんだか少しおかしくて、それ以上に微笑ましかった。
「ご苦労だった。リアムは利口にしていたか?」
リアムを起こさぬようアレクシスが小声で尋ねると、隊長格らしき騎士が興奮を抑えきれない様子で寄ってきた。
「ああお待ちしておりました閣下! なぜもっと早く教えてくださらなかったんです!? ご子息は逸材ですよ!」
その場の隊長格と思しき男性が、興奮気味に夫に詰め寄る。
「落ち着け、リアムが起きる」
「暇つぶしの遊び相手になるつもりで屋内訓練場にお連れしたんです! うちの新人が木剣で立ち会ったのですが」
熱量に押されるアレクシスに構わず、騎士が信じられないとばかりに首を振る。
「いやはや、危うく負かされるところでした。子供だからと侮っていた阿呆めが慌てておりました。第二騎士団に配属されて調子に乗っていたのでいい薬になりましたがね。いやぁあの歳であの剣筋……末恐ろしいですよ。成人された暁には、ぜひとも我が第二騎士団へ!」
「……だ、そうだ。師としてはどう考える?」
頬を紅潮させ前のめりになる騎士を両手で押しとどめながら、アレクシスが苦笑まじりに私にお伺いを立ててくる。
もちろんリアムの進路についての決定権は実父であるアレクシスにしかないのだけど、冗談でも師匠という立場を尊重してくれるのは嬉しい。
騎士は頭に疑問符を浮かべながら、話を振られた私の方へと視線を移した。
「ふふっ、弟子が褒められると気分がいいですわね」
誇らしさで胸をいっぱいにしながら微笑みを返す。
そうでしょうそうでしょう。
なにせ私の自慢の弟子なのだから。
愛らしくて賢いだけではないのよ。格好いいし強いし礼儀正しくて、驕らず褒め上手で度胸があって。
それはもう、精鋭ぞろいと評判の第二騎士団から声もかかろうというものだ。
「でもリアムの意思が大切ですもの。起きたら伝えておきますわね」
きっと本人も喜びますわ、と嬉しさを堪えきれず微笑みながら丁寧に礼を言って、ソファの前に膝をついた。
アレクシスが先に手を伸ばしかけるのを、そっと制する。
「私が」
そう言って、眠るリアムの身体を起こさないようにそっと抱き上げた。
腕の中でリアムが小さく身じろぎする。
すんすんと甘えるように鼻を鳴らして、ことんと私の肩に頭を預けてきた。
あどけない寝顔。柔らかな頬。ほんのりと温かい体温。
それを腕に抱いているだけで、どうしてこんなにも胸が満たされるのだろう。
気づけば、自然と頬が緩んでいた。
「……すっかり母親の顔だな」
アレクシスが、ぽつりと呟く。
その声があまりに優しかったので、私はなんだか気恥ずかしくなって、リアムの寝顔に視線を落としたまま聞こえないふりをした。
馬車に乗り込み、リアムを膝枕で寝かせる。
ガタゴトと揺れる中、その柔らかな髪を飽きることなく撫で続けた。
正面に座るアレクシスは、流れていく夜の景色をしばらく黙って眺めていた。
やがて、ふと思い立ったように口を開く。
「……シュタイン卿とは、どのような経緯で知り合ったんだ」
「先生とですか?」
沈黙に耐え切れなくなったのだろうか。意外な問いに、私は目を瞬かせた。
「答えたくないなら強制はしない」
「いえ、別に隠すようなことでは」
ゆるく微笑みながら、私はゆっくりと過去に思考をめぐらせながら語り始めた。
「そうですねぇ……先生が我が家にいらしたのは、私がまだ本当に幼い頃のことでした」
兄の剣術指南役として、騎士を多く輩出してきた名門シュタイン伯爵家から招かれた青年。
それがディートリヒだった。
当時の私は、ギフトの制御がまるでできていなかった。
力が強すぎたのだ。感情が昂ぶると加減を誤って、普通の子供であればちょっとした癇癪で済むところを、テーブルを叩き壊し、食器を握り潰し、床に穴を空けてしまう。
「家族はそんな私を化け物のように恐れました」
リアムを撫でる手は止めないまま、淡々と続ける。
両親は私を恐れるばかりで、正しい力の使い方を教え導こうとはしなかった。
上下関係を叩き込むように何度も殴り、けれどギフトによってほとんどダメージを受けない私をますます恐れた。
力で制圧できないと悟ると、今度は言葉で縛りつけることを選んだ。
来る日も来る日も私を罵り、貶め、お前は一人じゃ何もできない欠陥品だと刷り込んで、無力だと思い込ませようとした。
「でも残念ながら私は誰よりも強いことを知っていた。だってギフトってそういうものでしょう?」
だから私は萎縮するどころか、むしろ荒んでいった。
なぜ自分より弱い人間に罵倒されるのか。
なぜ何も悪いことをしていないのに部屋に閉じ込めるのか。
知能に関わるギフトなんてなくても、その矛盾に気づけないほど愚かではなかった。
勉強も運動もイマイチなのに褒められる兄や、泣いて誤魔化せばなんでも許される妹が目の前にいればなおさらだ。
今思えば、嫉妬もあっただろう。羨望もきっと。
だけどそれを素直に認められるほど、まだ大人ではなかった。
「受け入れられないなら、全部壊してしまいたかったの」
きっと私は本当に怪物になりかけていたのだ。
「ひどい子供でしょう? リアムとは大違い」
初めは私を追い出そうとした。けれどそれは実母への思慕があったから。いつかきっと戻ってきてくれると信じて、私という悪者に孤独に立ち向かった。
それは彼の優しさだ。
それにこの子は、本気で私を傷つけようとはしていなかった。
「そんなことはない。同じ立場だったら、俺もきっとそう考えた」
慰めるようにアレクシスが言う。
困ったわ。さっきからずっと悲しい目をしている。
できるだけ感情を込めないよう淡々と話しているつもりなのに、彼は自分のことのように痛そうに顔を歪める。
「そんな時に、現れたのが先生でした」
他人のギフトを見抜くという稀有なギフトを持つディートリヒの目に、世界がどう映っているのかは分からない。
けれど彼は、客人がいる時は決して人前に姿を現すなときつく言いつけられて隠れていた私を見つけ出した。
そうして私のギフトを看破したのに、彼はちっとも私を恐れなかった。
騎士の名門に生まれ、物心ついた時から剣を握ってきたディートリヒにとって、ただ力が強いだけの私など、他の子供と大して変わらなかったのだろう。
「先生は兄に稽古をつける合間に、家族に隠れてこっそり私に教えてくださいました。身体の動かし方、力の加減、息の整え方……剣の握り方まで」
誰かが私を恐れずにまっすぐ向き合ってくれた。
それがどれほど嬉しかったか、言葉では言い尽くせない。
「ああ、あの方ならやりそうだ」
アレクシスが暖かい笑みを浮かべる。
その表情を見て、きっと彼もディートリヒに恩を感じているのだろうとすぐに分かった。
ディートリヒは理不尽に虐げられている人間を放っておけないのだ。
「でも、先生が教えてくれたのは、それだけではないんです」
ふふ、と笑いながら言うと、アレクシスが不思議そうに首を傾げた。
当時のことを思い出すと、今でも少しおかしくなる。
「ある日、先生はこうおっしゃいました。『怒りに任せて暴れるより、にっこり笑って淑女のふりをした方が絶対に得だぞ』と」
最初は意味が分からなかった。
なぜすべてをねじ伏せられる力があるのに、わざわざ大人しいふりをしなければならないのか。
やり返しもせず負けを認めるなんて屈辱ではないか、と。
けれどむくれる私に、ディートリヒは大真面目にこう説いた。
「『大人しくしていれば相手は油断する。監視の目が緩む。面倒事も減る。そして安心させて背を向けたところを刺せばいい』と」
「物騒で野蛮な男だ」
呆れながらもアレクシスが肩を震わせて笑う。
「おかしいでしょう? 家族と上手くやる方法を説いていたはずなのに、狩りでもするみたいに」
それはお説教ではなかった。
ただどうすればこの力を抱えたまま少しでも生きやすくなるか。その処世術をディートリヒは授けてくれたのだ。
「半信半疑でしたけれど試してみました。そうしたら本当にその通りになったんです」
私が聞き分けのよい淑女を演じるようになると、両親は得意になった。
それみたことか、厳しくしつけた甲斐があった、と。
殊勝に謝る私を見て、「分かればいいんだ」と罵る回数を少しずつ減らしていった。
おかげでフィオナはすっかり調子に乗ってしまったけれど。
それでも、以前よりはずっと息がしやすくなった。
「屈辱なのでは、なんて心配はまったくの杞憂でしたわ」
だって私はもう知っていた。
ディートリヒの指導のおかげで戦闘の技術まで身につけた私は、もう無敵だということを。
こんな人たち、いつでもぺったんこにできる。
そう思えば、両親の罵倒もフィオナの嫌がらせも、ちっとも怖くなくなった。
むしろ悲しい顔や怯えた表情に、簡単に騙されてくれるのが面白くすらあった。
「先生の滞在は二年ほどでした。でもあの方の教えは、今もずっと私の中で生き続けています」
語り終えて、私はそっと息をついた。




