22.恩より優先するもの
「エリス! エリシア!」
ふいに、人だかりの向こうから懐かしい愛称を呼ぶ声が聞こえた。
エリス。
私をそう呼ぶ人は、この世にたった一人しかいない。
弾かれたように振り返ると、人垣をかき分けて一人の大男がこちらへ近づいてくるところだった。
見上げるほどの長身に、鍛え抜かれた厚い胸板。武骨だが人好きのする笑顔。
歳を重ねて少し風格が増したけれど、見間違えるはずもない。
「先生!」
思わず破顔する。
ディートリヒ・フォン・シュタイン。
私が幼い頃、ただ一人心を開き、師と慕った人。
兄の剣術指南役として二年ほど我が家に逗留していた、名門伯爵家の青年だ。
「ああ、やっぱりおまえだったか! 会いたかったぜ、エリス!」
今はもう中年の域に差し掛かったディートリヒが、白い歯を見せて豪快に笑う。
周囲の貴族たちは彼に道を譲りながら、私たちの関係を測りかねて様子を窺っている。
けれど彼に集まる視線は、フィオナが私に向けるような棘のあるものではなく、どれも好意的なものばかりだった。
そうだ。この人は昔からこうだった。
強くてまっすぐで、誰からも好かれる。
「お久しぶりです、先生。私もずっとお会いしたかったわ」
込み上げる懐かしさのまま、素直に告げる。
「俺もだよエリス。宰相殿の話を聞いて、もしやと思ったんだ。元気そうな顔が見れて安心した」
ホッとしたように頬を緩めるディートリヒに、私はぴんときた。
「あら、では私に会いたがっていたという騎士様というのは先生でしたの?」
「そういうこと。宰相殿に話を聞いて、もしやと思ったんだ」
「まぁ、それでわざわざ?」
「ああ。あの後どうしてるか、ずっと気にかかっててな」
ディートリヒが、ばつが悪そうに頭を掻く。
契約を終えてグランドール家を出る日。
彼は私の家族に見送られながら、秘密の生徒が反省室の鉄格子の隙間からこっそり手を振っているのに気づいて気の毒そうな顔をした。
私の境遇に同情して、何度も「俺と一緒に家を出るか?」と聞いてくれたのをよく覚えている。
だけど私は彼を巻き込むべきではないと、そのありがたい申し出を丁重にお断りした。
そのことをディートリヒは今も悔いているのだろう。正義感の強い人だったから。
「ようやくこうして会えた。立派に成長して……本当によかったよ、エリス」
ディートリヒの目元が慈しむように細められる。
その眼差しに、胸の奥がじんと熱くなった。
あの頃、私を恐れず、見捨てず、生きる術を教えてくれたのは、この人だけだったのだ。
「先生の教えを守って、立派な淑女になりましたでしょう?」
得意げに胸を張ってみせる。
「うんうん。すっかり綺麗になったなぁエリス」
「ふふ、それはこのドレスのおかげです」
しみじみと頷くディートリヒに、くすぐったくなって笑ってしまう。
「人の妻を愛称で呼ぶのはお控えいただけますか。シュタイン卿」
それまで黙っていたアレクシスが、むっつりとした顔で会話に加わる。
珍しいことに、いつも淡々としている夫があからさまに不機嫌そうだ。
「なんだよ、いいだろ。昔馴染みなんだしよ」
ディートリヒは悪びれもせず、にやりと口角を上げる。
「だいたい、エリスと呼ぶようになったのはあんたの妻になるよりずっと先だぜ? なぁ、エリス」
楽しげに同意を求められて、つい「まぁ、そうですわね」と頷いてしまう。
昔さんざんお世話になった人だからだろうか。
この人には返しきれないほどの恩がある。
エリスと呼ばれるのは嬉しかったし、少しくらいのわがままなら聞いてあげたい気持ちもある。
だけど。
ちらりと隣のアレクシスを見上げて表情を伺う。
眉間に皺を寄せて、いかにも不服そうにしている夫の横顔を、そのままにしておくのは嫌だった。
「でも先生。私、夫の嫌がることはしたくありませんの。呼び方を改めていただけます?」
きっぱりと言って、アレクシスににこりと笑いかける。
アレクシスが虚を突かれたように目を見開いた。
それからふいと顔を背ける。
一瞬余計なことをしてしまったかと不安になったけれど、横から覗き込んだその耳がうっすらと赤く染まっているのを私は見逃さなかった。
「……っは、ははは!」
ディートリヒが目を丸くした後で、堪えきれないとばかりに朗らかな笑い声を上げた。
「いやぁ上手くいってるようで安心したよ。からかって悪かったな、アレク」
ひとしきり笑ってから、ディートリヒは姿勢を正し私に向かって丁寧に頭を下げる。
「ご無礼をお許しいただけますか、エリシア様」
「様は少しくすぐったいですわ」
急にかしこまられて思わず苦笑してしまう。
「大人げないことを言った。忘れてくれ、ディートリヒ」
アレクシスも、ばつが悪そうに嘆息する。
どうやら矛を収める気になったらしい。
結局、「エリシア」と呼び捨てにすることに落ち着いた。
「しかし残念だ。家庭に不和でも見えたら、無理にでも騎士団に入れてやろうと思ってたんだがな」
「いやですわ先生。女性は騎士になれませんのよ?」
「なら別れさせて俺と結婚するとかどうだ」
「まぁ!」
あまりに突拍子もない冗談に、私はとうとう噴き出してしまった。
ディートリヒも私の笑いをとれたことに満足して豪快に笑っている。
そんな中、ただ一人。
「目的は果たした。帰るぞ、エリシア」
アレクシスだけが不機嫌を全開にして私の腕を引いた。
「え、もうですの?」
「ああ。これ以上長居しても仕方がない。それに……リアムが寂しがる」
「帰りましょう」
食い気味に即答した私に、アレクシスがわずかに目元を緩める。
リアムの名前を出された途端、会いたい気持ちが一気に爆発してしまったのだ。
我ながら現金なものだ。
「では、失礼いたしますわ、先生。またいつか」
「くくく、ああ。またな」
「次に会ったときは、覚えていろ」
面白がるように、ひらひらと手を振るディートリヒに、すれ違いざまアレクシスが低い声で捨て台詞を投げつける。
ディートリヒは、それすらも楽しそうに「おう、いつでも相手してやる」笑い飛ばした。
この二人、案外仲が良いのかもしれない。
私は彼らのやり取りを微笑ましく思いながら、アレクシスにエスコートされてようやく会場を後にした。




