19.社交界デビュー
会場へ足を踏み入れた瞬間、思わず息を呑む。
天井から幾つも吊り下げられたシャンデリアが放つまばゆい光。
磨き上げられた床の上では、着飾った貴族たちが談笑する声と楽団の奏でる旋律とが心地よく溶け合う。
中央の広く空いた一角では、すでに何組もの男女が音楽に合わせて舞っている。
なんて綺麗なのだろう。
妹の自慢話でしか知らなかった夜会というものが、目の前で本当に繰り広げられている。
「どうした、立ち止まって」
「いえ、あまりにも素敵で……」
足を止め見入っていた私に、アレクシスが小さく笑う気配がした。
「そんなに気に入るなら、もっと早くに連れてくるべきだったな」
「どうでしょう。こんな機会でもなければ、お断りしていたかも」
優しい言葉に苦笑で答える。
今回はアレクシスに妙な疑惑がかからないよう参加を決めたのだ。
ただの社交としてだったら、常識知らずの私ではきっとアレクシスに迷惑がかかるからと遠慮していただろう。
「私を呼んだ方はこの中に?」
だとしたら探すのが大変だ。
会場は広く、私はその方の顔を知らない。
目当ての人がリアムとアレクシスだったなら、この大勢の中からすぐに見つけ出せるのだけど。
「いや、呼び出しておいて別件で遅れるらしい」
「あら、そうでしたの」
申し訳なさそうに言われるが、腹は立たない。
リアムに早く会いたい気持ちも嘘ではないが、正直なところ待たされるのは嫌ではない。
見たいものが多すぎるのだ。
騎士の登場が遅れるほど、この光景を眺めていられる。
「すまないが、少し待たせてしまうことになる」
「構いませんわ。それより旦那様、あのダンスは難しさで言うとどれくらいですの?」
軽快な音楽に乗って、入れ代わり立ち代わり踊る男女の集団を指差して尋ねる。
「あれは基礎の基礎だな……もしかして、踊りたかったのか?」
「そうかもしれません。皆様楽しそうで、見ているだけでワクワクしてきます!」
国王主催の夜会だけあって、楽団の腕も相当なものなのだろう。
耳に流れ込む音色は心地よく、聞いているだけで身体が自然と動き出しそうになる。
「ならばダンスの教師もつければよかったな。どうやら俺は君の気持ちを決めつけたがるきらいがあるようだ」
アレクシスが眉尻を下げて言う。
だけど夜会が楽しいと感じるのも、ダンスをしてみたいと思うのも、今初めて知ったのだ。
私でさえ自分の気持ちが分かっていないのだ。彼に落ち度は何もない。
「そんなことございません。旦那様のおかげで毎日楽しいですわ」
社交辞令ではなく言ってアレクシスに微笑みかける。
彼は最初の敵意を収めてからずっと、私が過ごしやすいようなにくれとなく配慮してくれているのを感じていた。
それが愛息の守護者への歓待だとしても、私自身を大切にされていると勘違いしてしまいそうになるほどに。
「それにダンスはいま見て覚えますわ。あら、もう曲が変わりましたわね。へぇ、ステップが全然違うものになるのね」
「いま覚える? 正気か?」
ブツブツと分析を呟く私に、アレクシスが驚く。
「旦那様は踊れますの? 全部で何曲くらいあるのかしら」
「たしなむ程度だが。夜会自体久しぶりだ。全部覚えているかは自信がないな。リアムの方が達者だ」
「本当に? 素敵ね。帰ったらリアムと踊ってもよろしくて?」
会話の間もダンスフロアに視線が釘付けだ。
じっと観察してみれば、足さばきもターンのタイミングも、案外単純で単調だ。
いくつかのパターンさえ覚えてしまえば、あとはその組み合わせを変えているだけ。
それなのに音楽にのせて動くだけで、華やかで見応えのあるものに変わるのが不思議だった。
「もちろんだとも。リアムが喜ぶ」
「ふふ、楽しみだわ」
話している間にもどんどん曲が変わっていく。
アレクシスいわく、どの曲もダンスパーティー用に短くアレンジされているらしい。
「曲によって得意不得意があるから、全員が参加できるよう工夫されているのだろう」
「本当、動きが複雑な曲は参加者が減りますわね」
中には、ダンスに自信がある者だけが踊れる複雑なステップの曲もあるのだろう。
けれど私にとっては戦闘訓練よりずっと簡単だ。
まだ見ていないダンスも、その場で他の人を見ながら追いつける。きっと今その場に放り込まれても、上手に再現できる気がした。
「リアムはどの曲が好きかしら? ご存じ?」
口にしてから気づく。
王宮まで来て、話しているのはリアムのことばかりだ。
けれど仕方がない。アレクシスは息子を溺愛しているし、私だってもうすっかりあの子のことが大好きになってしまったのだから。
「もちろんだとも。ああ、ちょうどその曲に変わった。これはかなり難易度が高いからリアムもまだ上手く踊れない。ほら、参加者が減っただろう」
アレクシスがおかしそうに言う。
きっと上手く踊れなくて悔しそうにしているリアムを思い浮かべているのだろう。
「本当ですね。今踊っている方たち、皆さん体幹がしっかりしてらっしゃる」
「見ただけで分かるのか?」
「ええ、体重の移動の仕方とか……まぁ! 跳び上がったわ!」
曲がひときわ盛り上がったところで、残った数組のうち、男性が女性をふわりと高く抱き上げた。
宙でドレスの裾が花弁のように広がって、見ていた令嬢たちの口からうっとりとしたため息が漏れる。
「あれは持ち上げる方にも持ち上げられる方にも、高い技術が必要だ」
「確かに。抱き上げる直前、みんなぐっと気合を入れるお顔になってらしたもの」
「はははっ! よく見ているな」
アレクシスが声を上げて笑う。
その無邪気な表情に、つられて私も笑ってしまった。
ああなんて楽しいのかしら。
そう伝えようとして、今更ながらに気づく。
あちこちで貴族たちが私たちを遠巻きにしながら、ヒソヒソと囁き合っていることに。
これはよく知っている視線だ。
初めて見るものに浮かれて、うっかり見過ごしていたらしい。
「すまないな。君まで、嫌な目で見られている」
アレクシスも気づいたのだろう、申し訳なさそうに眉根を寄せる。
王族殺しの残虐宰相。
すっかり忘れていた夫の俗称を思い出す。
これは社交界で顔を知られていない私ではなく、彼に向けられている視線なのだ。
「ふふ、人気者ですこと」
気にしていないことを冗談で伝えると、アレクシスがホッとした顔になる。
嘘ではなく、むしろ懐かしい気持ちにすらなった。
実家にいた頃はずっとこんな目で見られていたのだ。
化け物を見るような、腫れ物に触るような視線。
少し前までの私の日常の一部だった。
それをすっかり忘れていられたのは、彼と結婚したからだ。
クロイツ侯爵家の人たちは皆、私の戦闘能力を知ってなお、誰一人として態度を変えなかった。
あの屋敷には私を恐れる人がいない。
それがどれほど得難いことだったか、外に出て改めて思い知る。
それもこれも、リアムが私を羨望の眼差しで見上げてくれるおかげだろう。
ぴょんと飛びついてくる弟子の笑顔を思い出して、自然と頬が緩んだ。
「……エリ、」
ふいに、アレクシスの手がこちらへ伸びてくる。
けれどその手も言葉も、途中で止まった。
私が、不穏な気配を察して、表情を変えたからだ。
ガシャン、と。
背後でガラスの割れる音がした。
「あぁら、ごめんなさい?」
わざとらしいほど嫌味ったらしい女性の声が、すぐ後ろから聞こえる。
振り返らなくても分かる。
今のは不注意による事故なんかではない。
中身の入ったワイングラスを、私にぶちまけるつもりで、わざと落としたのだ。
けれど。
「いいえ。お気になさらず。一滴もかかっておりませんので」
にっこり笑って告げると、女が「え!?」と素っ頓狂な声を上げた。
「そんなはず……!」
ありえないとでも言いたげに女性が表情を険しくして、私の全身にサッと視線を走らせる。
仕立てられたばかりのドレスは、一点のシミもなく美しい藍色のままだ。
ワインが宙を舞うより一瞬早く気配を察して、さっと裾を手繰り寄せ最小限の動きで回避した。
私の足元には、赤紫の水たまりと、グラスの破片が散らばっているだけ。
「危ないので、片付けてくださる?」
「なっ……!」
穏やかに諭すように言うと、女性の頬にカッと朱が走った。
「ちょっと! ここを片付けなさい!」
近くを通りかかった給仕係を怒鳴りつけ、女性は悔しそうな顔で「フン!」と鼻を鳴らすと、くるりと背を向けてさっさと行ってしまった。
「……邪魔な私に、狙いを変えたのでしょうか」
「にしては、やり口がセコすぎる気がするが……」
警戒に目を細め、女性が去っていくのを見送りながらアレクシスと小声で囁き合う。
アレクシスの言う通り、リアムに直接手を下せない原因を取り除くにしても、やり方がお粗末だ。
けれどあの令嬢とは初対面だ。私個人に何か恨みを持っているとは思えない。
となると本当にわざとではないか、あるいは。
「……セコい理由が、分かりましたわ」
女性が去っていく先を見て、自然と声が低くなる。
そこに立っていたのは。
こちらを面白そうに眺める、見間違えようもない顔だった。
「知り合いか?」
「妹だった者です」
答えた声が、自分でも驚くほど冷えていた。
「ほう、あれが……」
つられたのか、アレクシスの声も温度が下がる。
フィオナはワインをかけ損ねて戻ってきた令嬢から失敗の報告を受けたのか、露骨に不機嫌な顔になった。
そして令嬢に向かって、何事かを言い放った。
途端、令嬢の顔がさっと青褪める。
「何か揉めているようだな」
「この役立たず、と」
これだけの人混みの中、離れていても、嫌というほど聞き慣れた妹の声を聞き分けるのは簡単だ。
「あの子ったら、相変わらずね」
呆れて嘆息する。
自分より下とみなした人間には、どこまでも傲慢になれる。
あの令嬢は、いなくなった私の代わりだろう。
哀れだと思いたいところだが、ワインをかけようとした時の嗜虐心に満ちた表情を見るに、きっとフィオナと同類だ。
「こちらに来る気ですね。ご迷惑をおかけいたしますわ」
私になんのダメージも与えられなかったことに痺れを切らしたのか、フィオナがこちらに向かってズンズン歩いてくる。
「なに、俺は君の夫だ。妻の障害となるものには共に立ち向かおう」
面倒ごとに巻き込む予感に先に詫びると、アレクシスは頼もしく笑ってくれた。
ふわりと広がるピンクのドレス。可憐に微笑む愛らしい顔。
誰がどう見ても、守ってあげたくなるような可憐な令嬢だ。
そう、見た目だけは。
「お久しぶりですわね、お姉さま。まさかこんなところでお会いできるなんて」
さっきまで令嬢を罵っていた毒々しさが嘘のように、フィオナは花が綻ぶような笑みを浮かべてみせた。
この笑顔に、声に、仕草に。
お父様もお母様もいつも騙された。
そして誰も私の言葉に耳を貸さなくなるのだ。
ふと、胸の奥に嫌な感情が滲んで、無意識にアレクシスを見上げる。
もしそれがフィオナのギフトだったら。
この人も両親と同じように、フィオナの言葉を信じて、彼女の味方になってしまうのではないか。
そんな不安がよぎった。
けれど、隣を見上げた瞬間、それは霧散した。
アレクシスは、思いきり顔を顰めていた。まるで、ひどく不快なものでも見たような表情で。
心底ほっとした私を、アレクシスがそっと背中に庇うようにして、一歩前に出た。
「……こんなに雑音だらけの声は、初めてだ」
まずいものでも口にしたような顔で、私にだけ聞こえる小さな声で呟く。
家庭不和を隠してはいないが、フィオナの悪辣さは告げていない。
それなのに、フィオナの可憐さに惑わされず、私の強靭さを目にしてきても、当たり前みたいに私を守ろうとしてくれる。
それが、たまらなく嬉しかった。




