では、神は誰に縋ればいいのか
「……相容れないとは、手厳しいですな。ホージョーサン。我々の説法は比較的ハッキリものを言いますが、それでももう少し手心を加えますよ」
「仏教は物事をハッキリ直視する宗教だな、と私も思います。仏教の核である悟りが芽吹くための仏性は、すべての存在が持っていると説かれます。ここをごまかすことはできない。少なくとも、積極的に他者を害する思想とは相容れません」
「ストイックなことです。しかし正直言って、私にはそんな教義で多くの人に広まったのが不思議に思います……宗教の本質は、人類の平和を願うもの。つまりは、民の声を聞き、正しつつも、応え、導くのが宗教の在り方でしょう。理想論とストイックさのみでは、誰もついてこず、平和など遠のいてしまうのでは?」
「目指すものが似ていますが違いますね。世界が良い方向に向かうのは良いことですが、仏法はもっと身近にある教えと言えます。仏教は、逃れられない苦しみから解放される、そこに至らずとも、やりすごすための教えだからです」
「坐れば、苦しみから解放されるとでも?」
「苦しみから解放されたいと願って坐るべきではありませんが、苦しみを手放した『悟り』と坐った姿は等しい。だから坐るべきなのです」
「そこに論理の飛躍があると思うのですが……」
「言葉で語るものではありませんが……『この世は思い通りにならない苦である』『苦は欲望や執着が原因である』『執着を滅すれば苦しみから解放される』『その実践として修行がある』といった前提の上で、その修行が坐ることです。事実、坐ることは執着の根本たる自我を手放すことに繋がります」
ここまで聞いたところで、私の感想に変化は無かった。ハードルが高いわりに、リターンが限定的すぎる。これで人がついてくるのは、よほどの信仰心があるか、藁にもすがる思いの者だけだろう。
そして二代目勇者は後者、おそらくは慣れない異世界で藁にもすがる思いの者だったのだろう。
そして、このような「戦争に邪魔な思想」に、彼を篭絡されるわけにはいかない。
「……どうやらあなたのブッポーとやらを理解するには勉強不足のようだ。今日のところはここまでにして、また各々の教えにまい進しましょう。では……」 「坐りますか」
「……時間はそこまで無いと言ったはずですが」
静かないらだちを隠さず言い放つ。よもや手段を選ばないことが確定された今、取り繕う必要もない。
「短時間でも坐るべきです。直感ですが、あなたも立場に振り回されている。坐るべきです。坐る前の女神もそうでした」
「……女神も坐った、だと?」
「はい。この前会ったときは立派な坐相になっていました」
「……世迷い事もいい加減にしてくださいよ……」
久しぶりに怒りが脳を駆け巡るのを感じた。女神教の広まるこの国で、女神様を侮辱するような馬鹿はいない。それをこの男は、自分のテクニックのダシにしている。私の敬愛する、女神様を、だ。
「私が認識している縁を、あなたにとって事実と証明する術はないでしょう。ですから、あなたが私の妄想だ、とするのならばそれまで。でも私が伝えるべきは女神がいるかいないかではない。女神であろうがなかろうが、苦しむ者がいるなら坐るだけ。そういうことです」
怒りに任せて論破しようにも、「坐るだけ」とだけ言われてしまってはそもそも論戦が成り立たない。このような手合いは、無視して去るに限る。
組織の頭としての私が、この男の指導なぞ従う必要なし、と警告を鳴らす。
しかし、一宗教家としての私が、女神様は苦しんでいらっしゃるのか? では、女神はなにを頼ればいいのか? と諭す。我々は女神に縋るが、女神はいったい何に縋るのか。




