俺より尊敬されているハゲと悪人の定義
「スッキリしましたか?」
「まぁ……多分」
「私の本旨ではありませんが、あえて坐禅のメリットを科学的に調べたところ、何も考えない時間は脳のデフォルトネットワークという部分を活性化させるらしいですよ。このタイミングで、脳は複雑で散らばった情報の整理をするとのことです。坐禅したあとに仕事の効率が上がるのはこのためだそうです、よかったですね」
「……」
「でも私はあくまで僧侶。科学の世界はリスペクトしますが、私はあくまで仏法で話しをしたいと思います。ここから話すことは自己流も交じりますが……」
坐相を解きつつ、道安さんは語り始めた。あぁ、俺はこれからハリボテの正義を剥がされ、断罪されるのか……
「科学的プロセスは置いておいて、我々は坐禅により『身心脱落』を体現します。これは五欲五蓋、いわば煩悩、つまり心を曇らせるものを捨てている状態です。しかし先ほども言ったとおり、心が考えることを止めても、心が感じることは止められません。坐禅中のことを私たちは覚えています。基準そのものを手放した状態です」
「基準そのものを手放した状態……」
「そう、基準そのものを手放した状態。様々な物事を考えるときに、あらゆる基準になるのは自分です。しかし、煩悩が邪魔しているときの自分を基準にするのか、基準そのものを手放した状態、つまり『身心脱落』したときの自分から量りなおすのか、これは大きな違いだと思いませんか? 『何も考えない』状態を知らずに『よく考える』ことをしても、基準が足らないのです。特に自己を問題にする場合は」
「……」
「はい、私の自己流終わり。それで、その『身心脱落』した状態で、あなたは何を望みますか?」
「……坐禅でもしなければ簡単になれない自分のことなんて、考えても無駄ですよ」
「いいえ、必要です。あなたは嘘をついてまで自分を守らなくてはならないほど苦しんでいる。その苦しみを生じさせる縁を遠ざけるためには、煩悩や執着から解き放たれた自分に是非とも気が付かなければいけません」
「道安さん、座って何になるんだよ。俺は世界を救わなきゃいけないんだ、こんなの時間の無駄だ!」
道安は表情を変えずとも、目の前の青年の叫びをただ観察した。彼にしては珍しく、雑念が浮かんだ。
世界を救う前に、自分の一本の指の震えも止められない人間に、何が救えるのか。そもそも、彼自身が救われていないじゃないか。
「……私の理解では、宗派を越えて共通する、仏教が目指す目的があります。坐禅は目的を持ちませんが、禅宗も仏教の一派と考えると、究極的にはこの目的からは外れないのかもしれません。それは、苦から開放されること。あなたが最も必要としているハズのことです」
「苦しんでなんかいない! 俺は選ばれたんだ、世界を救わなければならないんだ!」
「世界を救いたい、結構なことですが、それも煩悩です」
「煩悩じゃない、義務だ!」
「義務という錯覚にとらわれると、人間は必ず報酬を求めます。なにかをしたからなにかが得られるはずだ……これは苦の始まりです。あなたが勇者に選ばれたこと、特別な能力を得たこと、全て理由などないのです。そこに理由をでっちあげて、正当化してはいけない。それは典型的な悪人への道です」
「違う……俺は、錯覚なんてしていない……悪人なんかじゃない……」
「ところで……悪人ってなんでしょうか?」
自分は激昂しているのに、道安さんはまるで坐禅している最中ように、静かで、一人怒り狂っている自分がバカみたいだった。
「悪人ごと全て救われる。そうだといいと私も思います。かつて、それを本気で追及した人が居ました、昨日のアホなハゲです」
あぁ、あのアホなハゲ。アホなハゲのくせに、俺より尊敬されているハゲ。
「全ての悪人でさえ、救われるべき。いや、悪人こそ最優先で救うべきと、彼は言いました。その当時、それを本気で信じ、教えを広めるのがどんなに革新的で、勇気のいることか。彼は自分が従来の仏教が救うべき善人ではなく、悪人であると認めた。しかし、こんな愚禿ですら救われるのだから、全ての人は救われるべきだと。私はこの考えが好きです」
「……それのどこが、俺と違うんだよ」
「彼の言う悪人は、自分は自分の力では何一つ善いことができない、救いようのない愚か者だと徹底的に自己を見つめ、絶望した者です。決して自分は救われると高を括っている者のことではない」




