「坐っている場合ではないですね」
「あんたのその、食べる前に歌うそれは、いったいなんなんだ?」
五観の偈を唱え終わった道安に対し、一緒に食卓を囲む男はやや遠慮がちに尋ねた。
「古い言葉で以下のようなことを言っています。
・食材の命と、それがここに用意されるまでの手間暇を思う
・この食事を頂く資格があるか考える
・むさぼり、いかり、愚かさの迷いを誡める
・この食事を頂くことが、欲を満たすのではなく、命を繋ぐための薬であると考える
・仏道を成すために、この食事を頂くことを誓う 」
お経の類は呪文のように唱えることも多いが、意味を知ればありがたいことを言っているのだと、道安は思う。
「それはまた素晴らしい教えだなぁ」
神妙な顔をしながらそう返したあと、一切間を置かず野菜汁へがっつき始めた男を見て道安は微笑んだ。
絶対に分かっていない。小難しい、自分には縁のない鼻歌だと思っているはずだ。
道安は自分が寺の門を叩いて間もない頃を思い出した。あの頃の自分も、同じだった。読んだ意味よりも、寺としての集団生活意識を統一させるための、いわゆるおまじないであり軍歌のようなものだと思っていた。
天才なら一朝一夕で理解できるだろうが、我々のような凡夫がその意味に気がつくのには時間がかかるだろう。
それからも道安は遠慮することはなく、毎食前に五観の偈を唱え続け、男もそれに対して何も言わなくなった。
しかし、五十日も過ぎると男は五観の偈の意味はともかく、音は完璧に覚えてしまった。
百日目辺りでは既に、面白がって道安と一緒に五観の偈を唱えるのが、食前の定番となっていた。
百五十日目に男が一日三分だけ道安と共に坐りはじめた頃、事件が起こった。収穫の直前に、男の畑は洪水に流されてしまった。
直近の蓄えこそあるものの、これでは年を越せないのではないか。男の頭は不安で一杯になる。
今日も軒先で坐禅をしていた道安が戻ってきた。彼は暇さえあれば坐っていたが、ただの客ではなく、ちゃんと農作業を手伝ってくれていた。
ご利益がありそうで、実際はただ座っているだけの妙な存在だが、少なくとも男の家計的に邪魔ではなかった(なんか山からシイタケとかいう変な味のキノコを持ってきてくれたし)。
しかし、手塩にかけた作物の収穫は望めず、残りの心もとない蓄えの意味が変わった今、道安を置いておく余裕は無かった。彼には去ってもらわねばならない。
しかしこんな状況でも直接それを言いにくい彼は、いつも道安が唱えていた五観の偈の話題から話し始めることにした。
「見てくれよ。このありさまを。畑がこんなんじゃ、明日死ぬわけじゃないが、半年後はもう怪しい」
「そうですね」
「あんたが必ず唱えていた五観の偈、俺だって最近唱えてたよな。あんたほどじゃないが、ちょっとは野菜に感謝してみたり、自分がこれを食べる資格があるか考えてみたりしたんだぜ。それなのに……」
「それなのに?」
「それなのに……こんな仕打ちはあんまりじゃないか。俺には信心が足りなかったのか? 坐り始めるのが遅いからだったのか?」
怒りに似ているが、やるせなさがほとんどの八つ当たりに乗せて、男は「出ていってくれ」と言葉を継ごうとした。その数瞬前に道安は思いもよらないことを言った。
「坐っている場合ではないですね」




