第9話 お客さん放置の新記録を目指す理由
6月某日 月曜日。午前10時。
ガソリンスタンド『デテオス』城南通り店に給油を求めてカローラフィールダーが1台来店、計量機の前で停車している。しかし、店員が一向に現れない。カローラフィールダーの運転席に座る男性客もスマホのゲームに夢中で、ガソリンスタンドに立ち寄ったことさえ忘れている。
一方の城南通り店の店長といえば、サービスルームの机に座って事務作業に集中している。従業員休憩室の女性は伝票整理を行い、ピットにいる男性店員はラジオ体操に励んでいる。さらに、店のトイレでは新人店員が洋式便器に座りながらスマホゲームに夢中になっていた。
カローラフィールダーの客が来店してから30分が過ぎた。
店長の杉野は、事務作業に没頭。
女性アルバイトの神酒は、伝票整理を続けている。
男性店員の山本は、インパクトレンチを執拗に見つめながら笑みを浮かべている。
新人アルバイトの拓馬は、洋式便器に座り、右手でスマホを握りしめながら激しい下痢に耐えていた。
「なんで急にお腹下すんや······」
拓馬はキリキリと痛むお腹をさすりながら、突然下痢に襲われた原因を考えた。
「もしかしたら、これは神様が俺に下痢を引き起こして、トイレから出られへんようにしとるのかもしれん。そう、これは『今日は接客するな』という神様からのメッセージなんや!」
拓馬は、ギュルギュルーッと排泄物が激しく流れ出る痛みを苦笑いしながら堪えた。
その頃、伝票整理を終えた神酒がサービスルームで事務作業をしている杉野のもとへやって来た。
「店長、伝票整理が終わったよ」
「あい、ご苦労さん」
神酒は杉野からの労いの言葉を聞き流しながら、フィールドの計量機に顔を向けた。
「あれ! まだお客さんがおるやん! 誰も接客に行っとらへんの?」
神酒が驚いて声をあげた。それに対して杉野は「そうみたいやな」と他人事のように答えた。
神酒は遠目でカローラフィールダーの運転席を見てみた。運転席の男性客は、まだスマホゲームに夢中になっている。
「あのお客さん、30分も店員が来なかったら、普通、気づくやろ」
神酒は、呆れてため息をついた。
「ところで、店長。財前君は?」
「まだトイレにおるんやないか?」
杉野は、そう答えながらトイレの方向を指さした。
「まだトイレにおるの? あの子も強情やね! そんなに接客したくないかんかな」
神酒は、呆れてため息をついた。その後、ピットに顔を向けた。
「山本さんは······。あの人はピットにこもってばかりで給油作業はやらへんから例外か」
山本に対してピット作業以外は何も期待していない神酒は、かぶりを振った。
「じゃあ、神酒ちゃんが接客したらいいやん」
杉野が書類から顔を上げると、神酒を見上げた。
「だから、私は、あの客は嫌やの!」
神酒は即座に否定しながらそっぽを向いた。
「この調子なら新記録が出そうやな」
杉野は、左手首に着用している見るからに安っぽい腕時計をチラリと見た。
「また、それですか! もしかして、店長が接客に行かないのは新記録を更新するためなんですか?」
神酒が呆れながら尋ねると、杉野はポカンとした表情で彼女を見上げた。
「そうや、当たり前やんか」
神酒は、信じられない、という表情で杉野を見つめた。
「今までの最高記録は47分や。僕はな、お客さん放置記録を1時間にしたいんや」
杉野は右手で拳をつくりながら新記録を達成したい旨を強調した。
神酒は首を傾げた。
「店長、ひとつわからへんのやけど、他のお客さんのときは真面目に接客に行きますよね? あのお客さんのときは、どうして新記録樹立に励むんですか?」
神酒からの質問を受けた杉野の黒縁丸メガネのレンズがサラリンッと煌めいた。
「いい質問や、神酒ちゃん。感動したわ。これで今夜は良く眠れそうや」
「いやいや、今夜は良く眠れそうや、で終わらないでください。ちゃんと質問に答えてくださいよ!」
「僕は今まで黙っとったんやけどな。実は、あのカローラフィールダーの客が嫌いなんや」
「え! あのお客さん、私だけでなく店長に対してもオンラインゲームの勧誘をしてくるんですか?」
「それは、ない!」
「じゃあ、なんで?」
すると、突然、杉野は勢いよく立ち上がった。杉野があまりにも勢いよく立ち上がったため、彼の黒縁丸メガネが左側に傾いてズレた。
「よし、では神酒ちゃんだけに説明しよう!」
「店長、その前にズレたメガネを直してください。なんか、気になります」
杉野はニヤリとすると、ズレた黒縁丸メガネをさりげなく左手で直した。
「そういうわけで、これはあかんな、と思ったんや!」
杉野の簡潔すぎる説明に、神酒は首をかしげた。
「店長、なにを言ってるんですか? 理由が全く見えないんやけど······」
「神酒ちゃんなら、わかるはずや」
「それだけの説明では、なんにもわかりませんよ! ただ、勢いよく立ち上がってメガネがズレただけやないですか!」
神酒の困惑した口調に対して、杉野はニヤリと笑みを浮かべただけだった。
(つづく)




