第93録 新たな旅立ち
「本当にお世話になりました」
リヤン大陸、マーレ港。
エリス・テオドールはそこで薬屋を営んでいるロイトの所に滞在しており、新たな知識を身につけていた。
彼から一通り教わり、「困っている人を助ける」という両親の約束を胸に、
エリスは去ることを決意したのだった。
早朝。
開店前の店内で丁寧に頭を下げたエリスを見て、ロイトは青目を細めて朗らかに答える。
「いいや、こちらこそ。
エリスの知識も分けてもらったから、僕もたくさん勉強になったし」
「それでもロイトさんから学んだ量の方が多いです」
「いやいや、学んだ量はお互い様だと思うよ」
謙遜し合う2人を、黒いローブフードを身に纏った長身の男が不機嫌そうに睨んでいる。
彼はベルゼブブ。訳あってエリスの最後を見届けることになってしまった悪魔だ。エリスがロイトと楽しそうに話しているのが気に食わないようで、
目深に被ったフード下から覗く金色の目が鋭く光っている。
エリスはそんな彼をチラリと横目で見てから、少し気まずそうに切り出した。
「それにしても、まさかロイトさんがアレキサンドルだなんて思ってませんでした……」
「僕はてっきり見抜かれてるかと思ってたんだけどね」
ロイトはエリスが戻ってきてから、自分の出自を明かしていた。
あわせて、自分がジョルジュ達と従兄弟であることも話している。
「まあ、僕は落ち着いて生活を送れているから気にはしてないんだけど。
でもアレキサンドルって聞くと、ラング叔父さんを思い起こしちゃう人が多いみたいだからね。黙ってるんだ」
ラングはロイトの叔父にあたり、現在アレキサンドル国を統率しているジョルジュの実父だ。
最近までアレキサンドル国を治めていたが、3ヶ月前に私怨で大陸を混乱に陥れた罰として、今は地下牢に幽閉されている。
「確かに、彼は強烈でした。
国を出る前にお会いした時は、とても落ち着いていましたけど」
「そうなんだ……。僕も詳細まではわからないけど、ようやく目が覚めたのかな。叔父さん、根は優しいからね」
「根は、優しい……」
そのような姿が思い浮かばなかったエリスは、少し呆れ顔でオレンジ色の目を細めた。
ふと、ベルゼブブが小さく鼻を鳴らした。
待たされていて苛立っているようだ。
エリスは焦った様子で口を開いた。
「あ、そろそろ行かないと」
「そうだね。立ち話してるものなんだし。
目的地は決まっているのかい?」
「いいえ。
とりあえず、地形を知っているリヤン大陸やアンスタン大陸を巡って、
また薬を売り歩こうと思います。素材と道具をたくさん頂きましたし」
そう答えながら、エリスは背中の色あせた黄色いリュックに目を向ける。
主要ポケットのみならず、左右のポケットもパンパンに膨らんでいた。
「素材は余り物だし、道具は僕の使い古しだけどね。
でも道具はまだまだ現役だよ。捨てるのも勿体ないからね」
「とんでもないです。また集め直さないといけないところだったので、助かりました。ありがとうございます」
「どういたしまして。
しばらくお別れかな?だけど、いつでも立ち寄ってもらっていいからね」
「はい。その時はよろしくお願いしますね」
「よい旅を!」
ロイトが遠慮がちに右手を差し出す。
握手だと察したエリスは軽く握り返して、すぐに離した。
それから小さく手を振って、店を後にした。
数時間後。
2人は船でアンスタン大陸に移動している最中だった。
時間が早いからか人はまばらで、乗客は5人ほどしかいない。
エリスは穏やかな日が降り注ぐ甲板で、オレンジ色の髪をなびかせながら
隣のベルゼブブに声をかけた。
「あんなに不機嫌にならなくてもよかったじゃない。
何が嫌だったの?」
「オレ様が不機嫌そうに見えたか?」
低い声でベルゼブブが答える。金色の目はまだ少し鋭かった。
「ええ。まだロイトさんと話している途中なのに、鼻を鳴らすから切り上げるしかなかったのよ。話したいことたくさんあったのに」
「滞在中に嫌というほど話してただろうが。
待たされる方の身にもなれ!」
「それは……ごめんなさい」
しょんぼりと肩を落としたエリスを見て、ベルゼブブは目元を普段の状態に戻す。
「フン、次は待たせるんじゃねぇぞ」
ぶっきらぼうに答えると、黙って正面を向いた。
海は穏やかそのもので、危機など訪れる気配はしなかった。
……だったら良かったのに




