6 ベルジャン侯爵家は、山の石みたいに黙って怒る
「お忙しいところ、お時間を賜り」
先方当主が頭を下げる。
「急なお呼び立てにもかかわらず、ご足労いただきありがとうございます」
父上が返す。
「どうぞ、お掛けください」
形式だけ見れば、至って穏やかな挨拶だ。けれど、席についた瞬間から空気は冷えていた。
父上は前置きをほとんど置かなかった。
「昨夜、当家の娘アンバーが、御子息コレリオ殿より婚約解消の意向と、その理由を聞きました」
「……はい」
「理由は“本来は姉のパールと結婚したかった。今や姉が戻ってきたのだから、妹との婚約を解消し、自分へ取り持ってほしい”というものだったそうです」
「それは」
先方当主の顔が引きつる。
「そこまで無体な言い方では」
「父上」
そこでコレリオ様が口を開く。私は嫌な予感がした。
「私は、その……もっと穏便に」
「黙りなさい」
ぴしゃり、と父親が遮る。でも、もう遅い。
父上は静かに言った。
「では、御子息ご本人に伺いましょう。私の娘の聞き違いですか」
「いえ、聞き違いでは」
「コレリオ!」
「ですが父上、私は家のためも考えて」
その場の全員が、ぴたりと止まる。家のため。今、この男はそう言った。
私は目を細めた。母上の扇が、ごくわずかに動く。兄はもう笑っていた。怒りが一定を超えると、兄はたまに笑う。
「家のため、とは」
父上が尋ねる。
「ベルジャン侯爵家との縁は保ちたかったのです。アンバー嬢との婚約がなくなっても、姉上のパール嬢と結べるなら」
「御子息」
母が、やわらかく言った。
「それを“家のため”と呼ぶのは、少々都合がよろしすぎませんこと?」
コレリオ様は母上に見られ、一瞬だけ言葉を詰まらせた。でも、愚かな人というのは、たまに沈黙より言葉のほうで深く沈む。
「ですが、ベルジャン家との結びつきは重要です。長男である私がそれを担うのは当然で」
「当然」
兄がそこで、はっきり鼻で笑った。皆の視線が兄へ集まる。
「失礼。あまりにご立派なご高説でしたので」
「サフィール」
母がたしなめる。
「はい、母上。控えます」
控えているようには聞こえなかったが。先方当主の額に、じわりと汗が浮く。
たぶんこの人は今、やっと理解し始めている。長男の口が、自分の想像以上に軽かったことを。そしてその軽さが、家の一縷の望みごと切り落としていることを。
コレリオ様には弟が二人いる。次男は学者肌で、工房だの新しい精製法だのにばかり興味を持っているという噂だ。三男はまだ若いが、現場へ顔を出すのを厭わず、人の話も聞くらしい。
王都での付き合いが派手な長男より、事業そのものには弟たちのほうが向いている、とささやかれているのを私は一度や二度ではなく聞いたことがある。
そんな家が、長男に少しでも格のある縁と後ろ盾を、と考えること自体は不思議ではない。けれど、だからこその「私」だったのだと、この男は気づいていなかったらしい。
「ベルジャン侯爵」
先方当主が低く頭を下げた。
「このたびは、息子の浅慮によりご不快な思いを」
「不快、で済ませるおつもりですか」
父上の声は変わらない。
「当家の娘二人を、代わりが利くもののように扱われた。しかも一人は離縁の傷を負って戻ったばかりです」
「無論、そのようなつもりでは」
「御子息は先ほど、“家のため”と仰いました」
「……」
返せない。返せるわけがない。
母上がそこで、ようやく口元だけで微笑んだ。
「こちらは、娘を道具として差し出す家ではありませんの」
「もちろん承知しております」
「でしたら、なおのこと不思議ですわね」
その“なおのこと”は、たぶん刃物よりよく切れる。
しばらくの沈黙のあと、父上が結論を告げる。
「婚約は、こちらとしても継続不能と判断します」
「……はい」
「ただし責は御家にあります。後日の正式な手続きについては、こちらから文面をお送りします」
「承知いたしました」
コレリオ様が顔を上げた。
「待ってください、父上。それでは」
「お前は黙っていなさい!」
今度こそ、父親の叱責は本気だった。でも私は、その様子を見てもちっとも哀れとは思わなかった。
遅いのだ。何もかも。
父上がさらに言う。
「加えて、以後しばらく、御子息から当家の娘へ私的な接触を試みぬよう求めます」
「当然です」
先方当主は即答した。
「必ずそういたします」
「私的な接触、とは」
コレリオ様が、まだ言う。
「アンバーに話すことも」
「ありますの?」
私はそこで初めて、まっすぐ彼を見た。自分でも驚くほど、冷えた声が出た。
「昨日の時点で、申し上げることはすべて伺いましたわ。まだ何かございますの」
「私は……」
「“本当は姉上と結婚したかった”の続きを聞けと?」
「違う、そうじゃなく」
「では何ですの」
コレリオ様は口を開き、閉じた。その顔を見た瞬間、私ははっきりわかった。
この人は、昨日の今も、今日の今も、自分が何を壊したのかまだ全部はわかっていない。
婚約が終わること。ベルジャン家との縁が切れること。
王都でどう見られるか。父親がどれほど頭を下げることになるか。
そういうことは、たぶん少しはわかる。でも、それ以上にわかっていないのは、自分が人としてひどく軽蔑されたということだ。
私は視線を外した。
「お帰りください」
それだけ言うと、父親のほうが深く頭を下げた。
「……まことに、申し訳ございませんでした」
先方が去ったあと、応接間にはしばらく沈黙が落ちた。窓の外では、昼の光が強くなっている。王都の春は、こういう時だけ妙にのどかだ。
兄が最初に口を開いた。
「駄目だな、あれは」
「駄目ですね」
母が言う。
「思っていたより、さらに」
「父上」
私はつい尋ねた。
「先方当主は、どこまでわかっていたのでしょう」
「昨夜の時点では半分もわかっていなかっただろう」
「今は?」
「八割ほどは」
残り二割が怖い。
兄も同じことを思ったらしい。
「じゃあ、残り二割はこれから思い知るわけだな」
「そういうことです」
母が穏やかに言った。その言い方が、いちばん怖かった。
私は背もたれに身を預け、長く息を吐いた。
まずは一つ。私の婚約は、終わった。そして向こうの有責で終わった。
それだけでも十分なはずなのに、胸の奥はまだ少しざらついている。たぶん、終わっていない話がもう一つあるからだ。
姉の離縁のこと。あちらの家のこと。
――そして、その屋敷に収まった愛人のこと。
父上が立ち上がる。
「次はパールの件だ」
「はい、旦那様」
母も続く。
「こちらのほうが、少し厄介ですわね」
「古い家ほど、面子で押し切ろうとする」
兄が言う。
「だったら押し切れないと教えるだけだ」
私はその言葉を聞きながら、窓際の鉱石細工へ目をやった。透き通った水晶の奥に、細い光が一本、きらりと走る。
姉の件は、私の婚約より重い。でも、そのぶんこちらも容赦するつもりはない。
ベルジャン家は、騒がない。派手にわめいたりもしない。
ただ、山の石みたいに黙って怒る。
そして怒った石は、たいてい相手が思うよりずっと重いのだ。




