4 母はもっと静かに怒った
「やはりあの離縁も、相手方をこのまま済ませるわけには」
「もちろんです」
母がまた即答する。
「ただし順番があります」
兄が不満そうに母を見る。母は涼しい顔で続けた。
「サフィール、あなたが今日にも先方へ乗り込んでコレリオ様の鼻を折ってくださるのは、私としても少々魅力を感じますけれど」
「少々どころではないでしょう、母上」
「ええ。とても魅力的です。ですが、それをしてもこちらが損です」
兄が黙る。
母は扇を閉じ、膝の上へ置いた。
「まず、婚約解消の責がどちらにあるかを明らかにすること。これは必要です」
「はい」
「次に、パールの元婚家に対する抗議。離縁に至る事情、嫁入り道具と持参金の確認、そして名誉の件」
「はい、母上」
「そして最後に、両家とも“こちらを軽んじた結果どうなるか”を理解していただくこと」
言葉そのものはきれいなのに、中身はひどく物騒だった。私はちょっとだけ安心する。
父が静かに怒る時も怖いけれど、母が理路整然と怒る時は、だいたい勝ち筋が見えている。
「アンバー」
父が私を見た。
「君は、コレリオに婚約継続の意思はないとみていいと思うか」
「ない、というより……」
私は言葉を探す。
「たぶん、私を失うことをそれほど重大だと思っておりません。姉上へ乗り換えられるなら、それで済むくらいに」
「だろうな」
兄が吐き捨てるように言った。
「では好都合だ」
父の声はやはり静かだった。
「向こうが軽々しく捨てられると思っている縁談が、実際にはそうではなかったと教えよう」
姉がそっと口を開く。
「あの……父上」
「何だ、パール」
「私の件まで大きくしすぎるのは、少し」
「大きくなるに決まっているでしょう」
ぴしゃり、と言ったのは母だった。
「あなたはもう少し、自分が雑に扱われたことに腹を立てなさい」
「母上」
「儚げにしていれば許されると思ったら大間違いです。あなたは昔から、見た目で得をするぶん、それに甘えて横暴を受け流しすぎるのです」
「……はい」
姉がしゅんとなる。でも、その頬にわずかに赤みが差した。たぶん、恥ずかしさと、少しの悔しさだ。
私はそれを見て、ふっと息をつく。姉がこうして叱られるのは、ある意味では元気な証拠でもある。
父は一度だけ咳払いをして、話を戻した。
「まず、コレリオの家にはこちらから書状を出す」
「今夜のうちに?」
兄が訊く。
「今夜のうちに」
父の返答は早かった。
「先方当主に、明日にも説明に来ていただこう。息子が当家の娘にどういう発言をしたのか、家として承知の上かどうか確かめる」
「承知していたなら、なお悪いですね」
母が言う。
「知らなかったとしても、息子の躾がなっていません」
どちらに転んでも逃げ道がない。
兄の口元がわずかに持ち上がる。怒っている時の兄は、たまに笑う。あまり良い兆候ではない。
「パールの元婚家については、私からも書状を出します」
母は続けた。
「こちらは少し丁寧に。事実確認を求める形にして、言い逃れをしづらくしましょう」
「母上、やっぱり怖いです」
「今さら何を言っているの、アンバー」
でも母は、その瞬間だけ薄く笑った。部屋の空気がほんの少しゆるむ。
その隙に兄が私へ顔を向けた。
「アンバー」
「何ですか、兄上」
「よく言ったな」
「気持ち悪い、と?」
「そこも含めてだ」
兄は腕を組んだまま、ふんと鼻を鳴らした。
「お前はたまに遠慮が足りないが、今回ばかりはよくやった。そこで黙っていたら、俺が逆に叱るところだった」
「兄上に叱られるのは嫌ですわ」
「だろうな」
父が小さく息をつく。
「サフィール」
「わかっています、父上。今から殴り込みには行きません」
「“今からは”と言ったな」
「……気のせいでは?」
母が兄をじっと見る。兄は視線をそらした。私は思わず笑いそうになって、慌てて口元を押さえた。
姉も同じだったらしい。長椅子の上で、少しだけ肩を震わせている。
そうして笑いかけた時、私は気づいた。部屋の空気が、ほんの少しだけ変わっていたことに。
さっきまでは、ただ理不尽と不快さで胸が塞がっていた。でも今は違う。腹立たしさはそのままでも、もう足元が定まっている。
私ひとりの怒りではない。姉ひとりの痛みでもない。家族みんなが、それをきちんと自分のこととして受け取っている。
それだけで、ずいぶん息がしやすくなった。
「では」
父が言った。
「今日のところはこれで十分だ。アンバー、パールにつき添いなさい」
「はい」
「サフィール、お前は執務室へ来なさい。書状の文面を確認する」
「はい、父上」
「旦那様、私はパールの嫁入り道具の一覧を出させます。離縁の件、抜けがないように」
「頼む」
「母上」
姉が、少しためらいがちに呼んだ。母は振り向く。
「……ありがとうございます」
母は一瞬だけ目を細めて、それから、ごく当たり前のことのように答えた。
「礼はいりません。家族ですから」
皆が出ていったあと、部屋には私と姉だけが残った。
窓の外では、夕方が近づきつつある。白薔薇の影が長く伸び、庭の砂利道にも薄い金色が差していた。
私は姉の隣へ腰を下ろす。
「姉上」
「何?」
「父上、怒っていたわね」
「ええ」
「母上はもっと怒っていたわ」
「ええ」
「兄上はたぶん明日の朝まで怒ってる」
「明後日までじゃないかしら」
姉がそう言って、ようやくはっきり笑う。その笑みを見た私は、胸の奥の硬い塊がほんの少しだけ溶けるのを感じた。
よし、と心の中で思う。
まずひとつ、こちらの足場は固まった。あとは順番に、向こうへ教えて差し上げればいい。
侯爵家の娘を、姉の代わりだの、戻ってきたから乗り換えるだの、そんな軽さで扱ったらどうなるか。
明日には、先方も嫌でも知ることになる。




