3 父は静かに怒る
鈴の音から、それほど間を置かずに母が来た。
たぶん、たまたま近くにいたのだろう。うちの屋敷は広いけれど、母はいつだって家族の気配に妙に敏い。淡い灰青のドレスを乱すこともなく部屋へ入ってきた母は、私と姉の顔をひと目見ただけで、すぐに扉を閉めた。
「何がありましたの」
静かな声だった。だからこそ、私の背筋も自然と伸びる。
「コレリオ様がお見えになって、話があると」
「ええ」
「それで、“本当は姉上と結婚したかった。私との婚約を解消して、姉上に取り持ってくれ”とおっしゃいました」
母はまばたきひとつしなかった。白い指先だけが、扇の骨を一度きゅっと握る。それから、にこりともせず言う。
「……そう」
その「そう」は、春の日差しのなかに置くには冷えすぎていた。
姉が小さく肩を縮めたので、私は慌てて言い添える。
「姉上は何も。今、私が伝えたばかりです」
「わかっていますよ、アンバー。あなたはそういう言い方をする子ではないもの」
母は姉のそばへ歩み寄り、その頬に手を添えた。
「パール、大丈夫?」
「ええ……ええ、母上。少し驚いただけです」
「少し、で済んでいるなら結構です。済んでいないでしょうけれど」
母の手は柔らかいのに、姉の表情はそのひと言で少しだけほどけた。
姉は昔から、誰かを困らせるより自分が堪えるほうを選びがちだ。だから母は、姉が「大丈夫」と言った時ほど信用しない。
「父上と兄上にも知らせますか」
「もちろん」
母は即答した。
「ただし先に言っておきますが、サフィールは怒鳴ります」
「わかります」
「旦那様は怒鳴りません」
「それもわかります」
「その代わり、ひどく怖い顔をなさるでしょう」
「それも、わかります」
私が言うと、姉がくすっと笑った。よかった、と思う。
こんな時に笑うのは不謹慎かもしれない。でも、姉がただ青ざめているよりずっといい。
母は小さくうなずき、付き添いの侍女に目配せした。
「旦那様とサフィールを、こちらへ。ただしサフィールには“落ち着いて来なさい”と付け加えて」
「はい、奥様」
侍女が出ていくと、部屋はまた少し静かになった。
窓の外では、白薔薇の向こうに山の稜線が見える。鉱山のある方角だ。まだ春浅いせいか、遠い斜面には冬の名残みたいな灰色が残っていて、それがかえってうちの領地らしかった。柔らかい花の季節でも、土台の石は揺らがない。
じっと景色を見ていると、廊下の向こうから足音がした。重くて速い。間違いなく兄だ。
そのあとに続く、ゆっくりした靴音が父だろう。案の定、扉が開くなり兄が入ってきた。
「何があった!」
「サフィール、声が大きいです」
母が即座にたしなめる。兄はぐっと口を閉じたけれど、翡翠色の目はもう危険なくらい鋭くなっていた。
日に焼けた顔立ちにその目だけが妙に鮮やかで、子供の頃から兄は怒ると先に目が光る。
一方で父は、いつも通りだった。
濃い茶の上着をきちんと着こなし、灰色の髪にも乱れはない。いかにも落ち着いた侯爵、といった姿で部屋へ入り、私たちを順に見た。
「アンバー」
「はい、父上」
「君が呼んだなら、君の口から聞こう」
私はうなずいて、先ほどのやり取りをできるだけそのまま伝えた。
客間でコレリオ様が何と言ったか。姉が戻ってきたことをどう捉えていたか。婚約解消と取りなしを、どれほど当然のように求めたか。
言いながら、もう一度腹が立ってきた。でも語尾だけは荒くしないように気をつける。
こういう時、父は感情より先に事実を求める。逆に言えば、事実さえ十分なら、あとは容赦がない。
話し終えたあと、しばらく誰も口を開かなかった。兄だけが、ぎり、と奥歯を噛んだ音を立てた。
父は窓辺に半ば背を向けたまま、低く言った。
「それは……」
一度言葉が切れる。私は思わず喉を鳴らした。
「それは、当家を侮辱した、という理解でよろしいですね」
父の声音は穏やかだった。けれど、その穏やかさの下に、山肌の岩盤みたいな硬い怒りがあるとわかる。
子供の頃、鉱山の視察に連れていかれた時に見た。静かに見える岩ほど、簡単には砕けないのだと。
「父上、その通りです」
兄が一歩前へ出た。
「アンバーを姉上の代わり扱いしただけでなく、姉上が戻ったからといって乗り換えるつもりだったのでしょう。舐めているにもほどがあります」
「ええ、舐めています」
母が言った。
「それも、かなり」
姉は毛布の端を握りしめていた。その手を見て、私はそちらへ近づく。
姉は私と目が合うと、少しだけ眉尻を下げた。
「ごめんなさい、父上、母上。私が戻ってきたせいで」
「パール」
父の声が、そこで初めてはっきりと強くなった。
「その言い方はよしなさい」
「ですが」
「戻ってくるべき時に戻ってきた。それだけだ」
「……はい」
「お前に恥はない」
姉の目に、うっすらと涙がにじんだ。
父は厳しい顔のまま、でもそれ以上何も言わない。余計に慰めるより、そのひと言だけ置くほうが姉には効くと知っているのだろう。
兄は兄で、姉の涙を見るとますます怖い顔になった。




