2 「さあ、始めましょうか」
「アンバーお嬢様」
控えていた侍女のミラが、私の顔を見るなり目を丸くした。
「お茶のおかわりをお持ちしようかと」
「いらないわ。それより姉上は?」
「西の小間でお休みです。少しお加減もよろしいようで」
「そう。ありがとう」
礼だけ言って、私は歩く速度を上げた。
西の小間は、姉が昔から好きな部屋だ。大広間のように華やかではないけれど、窓が大きく、午後になると庭の白薔薇がよく見える。
嫁いでからの姉には、ああいう静かな景色が足りなかったのではないかと、戻ってきてから何度も思った。
扉を軽く叩く。
「姉上、入っても?」
「ええ、アンバー?」
返事を聞いて中へ入ると、姉は窓辺の長椅子に腰掛けていた。膝には薄い毛布、手には閉じたままの本。
読んでいたというより、頁を開く気力まではまだ戻っていないのだろう。それでも、数日前より顔色はましだった。
陽の当たる髪は、真珠色というより淡い蜂蜜色に見える。子供の頃から、姉は光を受けた時がとても綺麗だった。
だから周囲はこぞって褒めたし、持ち上げたし、勝手な理想を投げつけた。
……その果てが、あの離縁だ。
「どうしたの、そんな顔をして」
姉が首を傾げる。私は扉を閉めて、まっすぐその前まで行った。
「コレリオ様がいらしていたの」
「ええ、さっき使用人から聞いたわ。ご機嫌うかがいかしらと――」
そこで姉は、私の表情から何かを読んだのか、ふっと笑みを消した。
「違うのね」
「違うわ」
私は姉の前にしゃがみこんだ。手を取ると、まだ少し冷たい。
「腹が立つから、このまま言うわね。あの人、本当は姉上と結婚したかったんですって」
「……は?」
姉の目が大きくなる。儚げだの可憐だのと騒がれる顔が、今はひたすら呆然としていた。
「それで、私との婚約を解消して、姉上に取り持ってほしいと」
「……冗談でしょう?」
「残念ながら、本気だったわ。本人はたいへん真剣な顔をしていたもの」
「いやだわ」
「ええ、私も」
一拍遅れて、姉は青ざめた。本当に血の気が引いた、という顔だった。
私は慌てて手を握り直したけれど、姉は首を振って小さく息を吐いた。
「ごめんなさい、アンバー。私のせいで」
「やめて」
少し強く言ってしまった。でも、止めなければならなかった。
「姉上のせいじゃないわ。悪いのはあの人でしょう。あと、姉上をぞんざいに扱った前の婚家も」
「でも、私が戻ってきたから」
「戻ってきてよかったのよ」
窓の外で風が白薔薇を揺らした。花びらが一枚、陽のなかをひらりと落ちていく。
「戻ってきてくれたから、ああいうものが炙り出されたの。むしろ良かったわ」
「良かった、は少し乱暴ね」
「そうね。でも今の私は少しくらい乱暴でいいと思うの」
姉は一瞬きょとんとして、それから、ほんの少しだけ笑った。
その笑いが見たくて、私は続ける。
「とにかく、これはもう私ひとりで抱える話ではないわ。父上と母上に話すし、兄上にも知らせる」
「サフィール兄様が怒るわ」
「たぶん廊下の柱が一本くらいへし折れるわね」
「二本かも」
「ではその前に母上を呼びましょう」
姉の笑みが少しだけ深くなる。よかった、と胸のうちで思う。
怒りは消えない。けれど怒りだけでは、姉の頬に色は戻らないのだ。
私は立ち上がった。
「……あの人、姉上が傷ついて戻ってきたことすら、自分の都合のいい機会としか見ていなかった」
「ええ」
「だから、きちんと後悔していただくわ」
「アンバー」
「大丈夫。泣かせたりしない。泣くのは向こうよ」
言い切ると、姉が私を見上げたまま、少しだけ目を細めた。
「あなた、怒ると昔から怖いのよね」
「姉上が優しすぎるのよ」
私は扉へ向かい、呼び鈴の紐に手を伸ばした。細い金糸が午後の光を受けて光る。
この屋敷では、誰かが傷つけられた時に、それをなかったことにはしないのだ。
父は不器用なくせに家族のこととなると妙に勘が鋭いし、兄は単純なくせに身内への義理堅さだけは本物だ。母はその二人を止めながら、いちばん容赦のないところへ着地させる。
そして私たち姉妹も、泣き寝入りが似合うほどおとなしく育ってはいない。
私は紐を引いた。澄んだ鈴の音が部屋に響く。
「さあ、始めましょうか」
今度はこちらが、家族にひとことも違えず伝える番だった。




