幕間6 「最低です」
コレリオは息を呑む。
父がここまで露骨に声を荒げるのは珍しい。珍しいからこそ、余計にこたえた。
「長男だからこそ、縁談も回した」
父は低く言う。
「長男だからこそ、表に立たせた」
「……」
「長男だからこそ、多少の浅さには目をつぶった」
「父上」
「だが、お前はその全部を、自分の当然の価値だと思っていた」
返す言葉がなかった。母がそこで、静かに椅子の肘掛けへ手を置く。
「コレリオ」
「……はい」
「わたくしは、お前が華やかな場を好むこと自体は責めませんでした」
「……」
「ですが、華やかな場で恥をかくのは一人で十分。家まで巻き込んではなりません」
「母上」
「まして、傷ついた女性に夢を見て押しかけるなんて、最低です」
最低。その語が、いちばん堪えた。
愚かより、軽率より、最低のほうがずっと刺さる。なぜなら、行いだけでなく人間そのものを言われた気がしたからだ。コレリオは唇を噛んだ。
あの庭でのことを、母も知っている。当然だ。文書が来ているのだから。
けれど、こうして“夢を見て押しかける”と一言で言われると、自分の胸の中でまだかろうじて美しく整えようとしていたものまで、一気に醜くなる。
「僕は」
コレリオはかすれた声で言った。
「そんなつもりでは」
「ではどんなつもりだったのです」
次男が冷たく言った。
「兄上は、パール・ベルジャン嬢に何を求めたのです」
「それは」
「傷ついているから、自分が入り込めるとでも?」
「違う!」
「違わないでしょう」
三男まで言う。
「妹君との婚約を壊した時点で終わっている話なのに、さらに追いかけたんですから」
「お前たちに何がわかる!」
思わずコレリオは声を荒げた。その瞬間、書斎の中がしんと静まる。
父は表情ひとつ変えず言った。
「わからんのはお前だ」
そこから先は、もう一方的だった。
――領地東部の旧工房へ明朝出発。同行するのは家令と古参の帳簿係。
――王都の屋敷への出入りは月に一度の報告時のみ。必要な衣服と私物以外は持ち出し禁止。
――王都での個人的な書簡のやりとりも、当面は全て家を通す。
それはほとんど、罪人への申し渡しみたいだった。
「……そこまでなさるのですか」
コレリオが絞り出すと、父は淡々と答えた。
「そこまでしなければ、お前はまた夢を見る」
その一言で、何もかも終わった気がした。夢を見る。さっきからその言葉ばかりだ。ベルジャン家でも、ここでも。
まるで自分だけが、現実の外にいるみたいではないか。
だが否定できない。否定できないのが何より苦しかった。
次男はもう兄を見ていなかった。三男も同じだ。
二人とも、父が机に広げた帳面や工房配置の紙へ目を落としている。すでに“兄の処遇”より、その後をどう回すかのほうに関心が移っているのだ。
そのことが、コレリオにはひどく怖かった。自分がまだ怒られているうちは、中心にいられる。
でももう違う。家の中は、兄を叱る段を越えて、兄抜きで回り始めようとしている。
「……わかりました」
そう言うしかなかった。そう言った時にはもう、声の中身がかなり抜けていた。
父は頷いただけだった。母も何も言わない。次男は無言。
三男だけが、ごく短く礼をした。父に向かって、だ。まるで新しい役目を受けたかのように。
◇
その日の夜、コレリオの荷造りは、いつもの侍従ではなく年配の家令が見張る中で行われた。
余計な手紙類は机へ残された。社交用の上着も半分以上が衣裳部屋へ戻された。
華やかな王都向けの持ち物が削られ、代わりに地味な実務服ばかりが詰められていく。
その様子を見ているうちに、コレリオは妙な気分になった。自分が誰なのかわからなくなるような気分だ。
長男だったはずだ。次代の当主として、王都で人脈をつくり、ベルジャン家との縁を維持し、それなりに見られる男でいるはずだった。
なのに今は、朝になれば旧工房へ送られる。帳簿係の下につく。弟たちが王都に残る。
部屋の鏡に映る自分の顔は、まだ貴族の息子に見えた。けれど、その見た目だけがやけに空っぽだった。
◇
その頃、ラヴェルディ侯爵夫妻の寝室では、母がぽつりと呟いていた。
「これでようやく、少しは目が覚めるかしら」
「どうだかな」
父は疲れた声で答える。
「覚めるには、自分が夢を見ていたと認める必要がある」
「……難しそうね」
「難しいだろう」
しばらく沈黙があった。
窓の外では、夜の王都が静かに更けていく。遠くの馬車の音も、今夜はひどく遠かった。
「ベルジャン家には」
母が言う。
「本当に恥をかいたわ」
「ああ」
「アンバー嬢にも」
「ああ」
「パール・ベルジャン嬢にも」
「ああ」
父は三度、同じように答えた。その短い相槌の積み重なりが、むしろ痛かった。
◇
翌朝、コレリオはまだ朝霧の残るうちに王都屋敷を出た。
見送りは少ない。父も母も出てこない。次男は工房の試験へ、三男は父の執務室へ呼ばれている。
玄関先にいたのは執事と家令だけだった。
馬車へ乗り込む時、コレリオは一度だけ振り返った。自分が生まれ育った王都屋敷。高い窓、整った石段、朝の光を受けた黒い門扉。
何も変わらないように見える。けれど、ここに戻る時の自分は、たぶんもう今までの長男ではない。
馬車が動き出す。王都の道はまだ静かだ。
その静けさの中で、コレリオはようやく、自分が完膚なきまでに叩きのめされたのだ、と少しだけ理解し始めていた。
ただし、それをちゃんと自分のせいだと認められるほどには、まだ賢くなれていなかった。




