幕間5 夢から醒めても、現実は少しも優しくなかった
コレリオがラヴェルディ侯爵家の王都屋敷へ戻った時、玄関の空気だけで、もう終わったとわかった。
別に誰も怒鳴ってはいない。使用人たちもいつも通り一礼したし、外套を受け取る手つきにも乱れはなかった。
けれど、その“いつも通り”が、今日は妙に冷たかった。
「旦那様がお待ちです」
執事がそう告げる。場所まで聞く必要はなかった。父が「待っている」時は、だいたい書斎だ。
そして今日は、どう考えても穏やかな話ではない。
コレリオは外套を脱ぎ、まだ春の匂いの残る手袋を握りしめたまま廊下を進んだ。昼の庭で起きたことが、頭の中で何度もひっくり返る。
白い花。ベルジャン嬢――パール・ベルジャンの冷えた目。するりと外された腕。膝をついた自分。
アンバーの声。
――あなたは最初から最後まで、ご自分に都合のいい夢しか見ていないのです。
そこだけが、やけにはっきり残っていた。
書斎の扉は半ば開いていた。中へ入ると、父だけではなかった。母もいる。しかも窓際には二人の弟達までも。
それを見た瞬間、コレリオは喉の奥が乾いた。家族会議、などという穏やかなものではない。裁かれる時の配置だった。
「戻りました」
声が少し掠れた。
父は机の向こうに座ったまま、息子を見た。重たい顔だった。怒鳴る前の顔ではない。怒鳴る必要すらないほど、もう見限りかけている時の顔だ。
「座れ」
コレリオは椅子に腰を下ろした。それだけで、背筋に妙な冷たさが走る。座らされた、という感じがした。
机の上には、封の切られた文書が二通あった。
ひとつは見慣れた自家の便箋ではない。たぶんベルジャン家から届いたものだろう。もうひとつは、今日の訪問先の屋敷からのものに違いなかった。
「まず確認する」
父が言う。
「お前は、本日、当家として接触を禁じられていたにもかかわらず、ベルジャン嬢らの前へ姿を現した」
「……はい」
「しかも、パール嬢へ私的な言葉を重ね」
父の声がさらに冷えた。
「腕を取ろうとした」
「それは」
「違うと言うか」
コレリオは口を開いて、閉じた。違う、と言えない。
いや、本心では“違う”と言いたかった。乱暴な意味ではなかった、引き留めようとしただけだ、そういう理屈なら頭の中にはいくらでも浮かぶ。
でもそれを今ここで口にした瞬間、さらに終わるともわかった。
「……軽率でした」
ようやくそう言うと、三男が小さく息を吐いた。馬鹿にしたような、呆れたような息だった。
次男はもっと露骨だった。窓辺に寄りかかったまま、兄を見もしない。
「軽率」
母が静かに言った。
「便利な言葉ね」
「母上」
「軽率で済むなら、誰も苦労しません」
その声は大きくない。でも、責めるというより切り捨てる響きがあった。
父が机上の文書を指で叩く。
「ベルジャン侯爵からの文書だ」
コレリオの心臓が重たく跳ねた。
「お前の不法な接触、相手方の親族の庭へ無断で紛れ込んだこと、ベルジャン嬢へ触れようとしたこと、その全てが記されている」
「……」
「さらに、先方の主人からも同様の証言が来た。使用人が複数見ている」
「父上、私は」
「黙れ」
短い一言だった。だがその一言で、コレリオは本当に黙るしかなかった。
「私は」
父が続ける。
「お前が愚かだとは、《《前から知っていた》》」
「……」
「だが、《《ここまで愚かだとは》》思わなかった」
部屋の空気が凍った。母も、弟たちも、誰も口を挟まない。
その沈黙の中でその言葉だけが、やけに重く落ちる。
コレリオは拳を握った。反発したい気持ちはあった。愚かだなどと、そこまで言うのかと。
だが、反発できる材料が何ひとつなかった。
「お前に、最後の見込みがあるとすれば」
父は言う。
「ベルジャン家との縁を壊したあと、少なくとも黙って領地へ下がり、こちらの指示に従うことだった」
「……」
「それすらできなかった」
次男がそこで、初めて口を開いた。
「僕は前に申し上げました」
淡々とした声だった。怒っているのではない。ただ、もう結論が出ている時の声だ。
「兄上が事業に関わるなら、僕は精製法の試験にも契約にも名を貸しませんと」
「ベルン」
母がたしなめるように呼ぶ。
「事実です」
次男は一歩も引かない。
「兄上は数字より見栄を見ます。人より自分の気分を優先する。そういう方と工房を動かす気はありません」
「お前」
コレリオは思わず顔を上げた。
「そこまで」
「はい、そこまでです」
次男は兄を真っすぐ見た。
「ベルジャン家の件は、家同士の問題です。ですが今日の件は違う。兄上ご自身が、家の指示も、外聞も、最低限の理性も捨てた」
「……」
「それなら、僕はもう無理です」
コレリオは何も言えなかった。次男は昔からこういうところがある。感情で揉めない代わりに、見切ったら戻らない。
そこへ、三男まで続けた。
「僕も同意見です」
まだ十八のくせに、声だけは妙に落ち着いている。
「兄上が王都で顔を出すたび、うちの使用人や取引先まで気を遣うことになります」
「お前まで」
「はい。兄上が外れるなら、僕が現場を覚えます」
「……!」
その言葉に、コレリオは初めてはっきり顔色を変えた。
父に叱られる。母に失望される。それだけなら、まだ“家族が怒っている”で済んだ。
でも弟たちは違う。これは怒りではない。席を取りにきているのだ。
「父上」
コレリオはようやく身を乗り出した。
「お待ちください。私は」
「待たない」
父が言った。
「もう十分待った」
その声には、長く積もった疲れがあった。
「本日をもって、お前は王都での社交予定から外す」
「……」
「事業についても、今後しばらく口を出すな」
「父上!」
「領地東部の旧工房へ行け」
父は続ける。
「帳簿係の下で、材料の出入りから学び直せ」
「帳簿係の下?」
「聞こえなかったか」
「私は長男です!」
「だからここまで譲ってきた!」
父の声が、初めて大きくなった。書斎の窓がわずかに震えた気がした。




