29 壊すべき夢ならきちんと壊そう
そこへ、ようやく人の気配が近付いてきた。
「アンバー!」
兄上の声だった。
「姉上!」
次いで父上、母上、屋敷の人たちまで駆けてくる。さすがにこの騒ぎには気づいたらしい。でもその時には、もう勝負はついていた。
コレリオはみっともない顔で立ち尽くし、姉上は扇を閉じて涼しい顔をしている。
私はその少し前に立って、まだ喉の奥に怒りを残したままだった。
「何があった」
父上が低く言う。
「大したことではありませんわ」
姉上が答えた。
「コレリオ様が少々近づきすぎましたので、お引き取りいただこうとしただけです」
「姉上、それは“大したことです”」
私は言った。
「手を伸ばしましたもの、この人」
「そうか」
父上の声が冷える。兄上はその瞬間、本当に前へ出かけた。
でも母上が止めるより先に、姉上が静かに言う。
「兄様」
「何だ、パール」
「私は無事です」
「見ればわかる」
「ええ。ですから、今は大丈夫」
「……」
兄上は不満そうな顔をしたけれど、ぎりぎり踏みとどまった。
母上はコレリオを見た。その目の冷たさに、私は少しだけ同情しそうになって、やめた。こいつに同情する理由はない。
「ラヴェルディ家のご長男」
母上が言う。
「家として接触を禁じられていたはずですけれど」
「……」
「それを破ってまで、傷ついた女性へ夢想を押しつけにいらしたの?」
「違います、私は」
「触れようとなさいましたわね」
母上はやわらかく言う。
「それも見苦しく」
父上が一歩前へ出た。
「この件は、ラヴェルディ侯爵へそのまま伝える」
低い声だった。
「弁解は」
「ありません」
私が先に言った。
「必要なのは弁解ではなく、連れ帰りでしょう」
兄上がそこで鼻で笑う。
「アンバー」
「何ですか」
「それはいい」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
でも少しだけ、だった。
コレリオは完全に追い詰められた顔をしていた。それでもなお、最後の悪あがきみたいに姉上を見る。
「……パール嬢……」
「お帰りくださいませ」
姉上は静かに言った。
「次は、倒すだけでは済ませませんわよ」
コレリオの顔から血の気が引いた。
ああ。と思う。夢、壊れたな。綺麗に。
儚げで、傷ついていて、自分が差し伸べれば縋ってくるはずの女性。そんな都合のいい像は、今この庭で、姉上自身の手できっちり壊されたのだ。
そしてその破片の上を、私は遠慮なく踏みつけてやる。
「お聞きになりましたでしょう?」
私はにっこり笑う。
「姉上は、あなたごときに助けられるほど安くありません」
「……」
「むしろ、姉上に触れた瞬間に転がされたお気分はいかがでした? ご自分の夢の浅さがおわかりになりまして?」
「アンバー」
母上が言う。
「はい、少しだけゆっくりですね」
「ええ。けれど、だいたいその通りですわ」
私は満足した。コレリオはもう何も言えない。
父上と兄上の視線、母上の冷笑、私の言葉、それ以上に姉上のあの一手が、全部まとめてこいつの夢を叩き折ったのだろう。
白い花の小径に、春の風がまた吹く。さっきまで綺麗だった景色が、今はなんだかやけにさっぱり見えた。
片づいたからだ。かなり。
◇
コレリオは結局、母上の実家の使用人たちにきっちり見送られて庭の外へ出された。その背中はもう、ロマンに酔った男のものではなく、ただただ場違いでみじめな若造の背中だった。
私はそれを見届けてから、姉上へ向き直る。
「姉上」
「何?」
「最高です」
「何が?」
「今の全部です」
私は言った。
「でも特に、するっとやったところが」
「……見ていたのね」
「もちろん」
「驚かなかった?」
「いえ。姉上の護身のほうが上手いのは昔から知っておりますもの」
「まあ」
姉上が少し笑う。
「それを今さら言うの?」
「今がちょうどいいと思いまして」
兄上がそこで、じとっとこちらを見る。
「何だ、それは」
「兄上が剣の形にこだわっていた頃、姉上は先に崩し方を覚えていました」
「初耳だぞ」
「言ってませんでしたもの」
「おい」
「兄上は正面から行きすぎなのです」
「アンバー」
「はい」
でも父上まで少しだけ息をついていた。呆れたのか、安堵したのか、その両方かもしれない。
母上が姉上の肩へ手を置く。
「パール」
「はい、母上」
「遅いですけれど、結構です」
「ありがとうございます」
「ただし次からは、もっと人目のあるところでなさい」
「次があっては困りますわ」
「まったくその通りです」
庭の向こうでは、昼の支度を告げる鐘が鳴った。
穏やかな春の昼。でもその穏やかさの中で、もう一つの馬鹿はきれいに壊れた。
ドルメーユ家の末路が重く静かな終わり方なら、こちらはもっと滑稽で、もっとみじめで、そして夢見がちなぶんだけ容赦がなかった。
私はその違いが少し楽しかった。
だって、壊すべき夢なら、きちんと壊れたほうが気持ちがいいではないか。




