30 夢を見るなら、今度はちゃんと目を開けて
それから少しして、ベルジャン侯爵家の王都屋敷には、ようやく普通の春が戻ってきた。
もちろん、何もかもが一度で綺麗さっぱり消えたわけではない。
ドルメーユ侯爵家の噂はしばらく続いたし、ラヴェルディ家の長男が王都から消えた話も、親しい家々ではそれなりに囁かれた。
けれど、少なくとも我が家の中では、もうあの二つの馬鹿を中心に一日が回ることはなくなった。それが何よりありがたかった。
初夏の入り口みたいに陽のやわらかい午後、私は姉上と一緒に庭の東屋にいた。
白薔薇は盛りを少し過ぎ、代わりに薄青い小花が足元で揺れている。風は軽く、空は高い。
ついこのあいだ、同じような風の中で横恋慕の馬鹿が転がされたとは思えないほど、のどかな景色だった。
「ねえ、姉上」
「何?」
「今度こそ、次の縁談は自分で見ましょうね」
「今度こそ、って」
姉上が少し笑う。
「私、前はそんなに夢見ていたつもりはないのだけれど」
「夢見ていなくても、周りが勝手に決めることはありますでしょう」
「それはそうね」
姉上は膝の上の本を閉じた。最近の姉上は、やっと本をちゃんと読めるようになった。ページをめくる指先にも迷いがない。
そういう細かな変化が、私は地味に嬉しい。
「自分で見る、か」
姉上が空を見上げる。
「そうね。次があるなら、今度は私もちゃんと見たいわ」
「ええ」
「家の釣り合いとか、外聞とか、そういうものがあるのはわかっているけれど」
「それはあります」
「でも、それだけで決めたくはないわね」
私は頷いた。うちの家は現実的だ。父上も母上も、家同士の釣り合いを軽くは見ない。
でも同時に、娘を飾りのように渡して平気な家でもない。そこはもう、今回で嫌というほど確かめた。
「私は」
姉上がふと、少しだけ悪戯っぽく言う。
「今度は、ちゃんと嫌なことを嫌と言える相手がいいわ」
「すごく大事です」
「ええ」
「あと、姉上のものを勝手に持ち出さない人」
「それは最低条件ね」
「ええ、最低条件です」
そこで二人して笑った。少し前なら、そんなふうに笑えなかったかもしれない。
でも今は笑える。笑って、もう次の話をしていいところまで来たのだ。
「アンバーは?」
姉上が訊く。
「何が?」
「あなたは、どんな方がいいの」
私は少し考えた。考えてから、肩をすくめる。
「私ですか」
「ええ」
「そうですね…… 少なくとも、姉上を踏み台にしようとしない人」
「それは大前提でしょう」
「あと、私を代わり扱いしない人」
「それも大前提ね」
「顔を見て話す人」
「それも」
「言葉を綺麗に並べて、自分に酔わない人」
「だいぶ絞れてきたわね」
「案外難しいですわよ」
姉上がまた笑う。その笑い方がほんとうに軽くなっていて、私は胸の奥が少しだけあたたかくなる。
「でも」
私は言った。
「姉上も私も、次はちゃんと見ましょう」
「ええ」
「家にも見てもらうけど、自分でも見る」
「ええ」
「夢を見るなら、目を開けたまま」
「まあ」
姉上は目を細めた。
「いい言い方」
「でしょう?」
そこへ、砂利を踏む音が近づいてきた。振り向くと、兄上だった。
相変わらず大きい。春の日差しの中でも妙に存在感がある。しかも今日は珍しく機嫌がいい顔をしていた。
「何の話だ」
「将来の話です」
私が答える。
「将来?」
「次の縁談は、自分でも見定めましょうね、と」
「ほう」
兄上は東屋の柱に軽くもたれた。
「それはいい」
「兄上には関係ありません」
「あるだろう。妹たちが変な男に引っかからんよう、兄として見てやるのも役目だ」
「兄上」
「何だ」
「ご自分のほうはどうなのです」
兄上が少しだけ目を逸らした。あ、と思う。これは何かある顔だ。
「別に、俺は」
「別に?」
姉上が首を傾げる。
「兄様、何か考えていらっしゃるの?」
「いや」
「夢見ている顔ですわね」
私が言うと、兄上がむっとした。
「何だその言い方は」
「だってそうでしょう」
「違う」
「では何ですの」
「いや、その……」
兄上は珍しく少し言いよどんだ。これは面白い。
たぶん姉上も同じことを思ったのだろう。隣で口元を押さえている。
「最近」
兄上がようやく言った。
「父上の知り合いの家で、少し気の強そうな令嬢を見かけてな」
「まあ」
「兄上」
「何だ」
「夢見るとコレリオになりますわよ」
「ならん!」
即答だった。あまりに即答だったので、私はとうとう吹き出した。
姉上も肩を震わせて笑っている。
「失礼だぞ、アンバー」
「失礼ではありません」
私は笑いを抑えつつ言う。
「兄上が“気の強そうな令嬢がいいなあ”などとぼんやり夢を見始めたら、家族として警戒する義務があります」
「そこまで言っていない!」
「顔が言ってました」
「言ってない」
「言ってました」
「言ってない」
「言っていましたわ」
姉上まで加勢した。兄上が唸る。
ちょうどその時、東屋の向こうから母上の声が飛んできた。
「サフィール」
「はい、母上」
「何を唸っているのです」
「何でもありません」
「嘘ですね」
母上がこちらへ歩いてくる。
「アンバー、パール、何がありましたの」
「兄上が夢を見かけていました」
「おい」
「まあ」
母上は兄上を見た。
「よろしくありませんね」
「母上まで」
「夢を見るのは結構です」
母上は涼しい顔で言う。
「ですが、相手の方をきちんと見もせず、自分に都合のいい像をつくるのはいただけません」
「してません」
「本当かしら」
「してません!」
「ならよろしい」
でも母上は、少しも信じていない顔だった。さらにその後ろから、父上まで現れる。
「何の騒ぎだ」
「兄上が未来の令嬢に夢を見ていた件です」
私が言うと、父上は一瞬だけ沈黙した。それから兄上を見て、静かに言った。
「サフィール」
「……はい」
「夢を見るのは勝手だが、相手を見ずに夢だけ育てるな」
「父上まで」
「前例がある」
「それはそうですけど!」
東屋の中に笑いが広がった。
兄上は本気で不満そうだったけれど、その不満顔すら今日はどこか明るい。たぶん兄上自身、こうしてからかわれるくらいには、家の空気が戻ったとわかっているのだろう。
母上が姉上の肩へ軽く手を置いた。
「パール」
「はい、母上」
「あなたもアンバーも、次はきちんと見なさい」
「はい」
「サフィール、お前もです」
「俺もですか」
「当然でしょう」
「……はい」
父上は小さく息をついた。
「この家は」
と、少しだけ呆れたように言う。
「馬鹿を二人片づけたと思ったら、今度は夢見がちな者が増えるのか」
「失礼ですね、父上」
兄上が言う。
「俺はまだ何もしてません」
「夢見ていただけですものね」
私が言う。
「アンバー」
「何ですか」
「お前は本当に」
「何でしょう」
「元気になったな」
父上が言った。その声があまりに何気なかったので、私は一瞬だけ返事を忘れた。
姉上も、たぶん同じだったのだろう。少しだけ目を伏せて、それから小さく笑う。
「ええ」
私はようやく答えた。
「たぶん、みんな」
風が東屋を抜けていく。白薔薇の香りはもう薄くなって、代わりに青葉の匂いがした。
季節がひとつ進むみたいに、私たちの話も、少しずつ前へ進んでいく。
姉上はもう、見切った顔で笑える。私は相変わらず口が先に動くけれど、前よりちゃんと足場がある。
兄上はからかわれながらも、たぶん本当に次を見始めている。
母上は相変わらず怖いし、父上は静かだ。
でも、それでいい。
「姉上」
私はもう一度言った。
「次は、ちゃんと見ましょうね」
「ええ」
「私も見る」
「ええ」
「兄上も、夢を見るなら目を開けて」
「しつこいな」
「大事ですもの」
「そうですね」
母上が言う。
「ほんとうに」
その一言で、また皆が笑った。
春の庭は明るかった。ついこのあいだまで、傷や馬鹿や見苦しい夢に引っかき回されていたのが嘘みたいに。
でも、嘘ではない。ちゃんと通ってきたから、今ここで笑えるのだ。
なら、もう十分だった。
夢を見るなら、今度はちゃんと目を開けて。
自分の足で立って、自分の目で見て、それでもいいと思えるものだけを選べばいい。
ベルジャン家の春は、そうやってようやく、次の季節へ向かい始めていた。
END




