幕間4 座ったはずの椅子は、思っていたよりずっと冷たかった
「だから何だ」
ようやくカルダンが言う。
「だから何だって?」
「親族が入ろうが、一時のことだ」
「へえ」
「私はこの家の跡取りだ」
「だったらどうして、そんな顔をしているの?」
それは、たぶん言わないほうがよかったのだろう。でも言ってしまった。
カルダンの表情が変わる。怒ったというより、強ばった。
「……お前は最近、ずいぶんとうるさいな」
「最近?」
「前はそんな女じゃなかった」
「前は、あなたがもっと私を見ていたもの」
「……」
「今は違うじゃない。何よ、あの家へ行ってからずっと」
アーシャの喉が熱くなる。言いたくなかったのに、言葉は止まらない。
「まだパールのことが気になるの?」
「違う」
「違わないわ。だって、あなた、あの人の名前を出されると顔が変わるもの」
「違うと言っている」
「じゃあ何なのよ!」
「……自分の愚かさが腹立たしいだけだ」
その答えに、アーシャは一瞬だけ黙った。
愚かさ。自分でそう言うのは初めて聞いた。
でも、その愚かさの中に自分も含まれていると気づいて、余計に腹が立った。
「勝手ね」
アーシャは言った。
「何もかも勝手だわ。欲しい時だけ私を選んで、今になってその選び方が悪かったみたいな顔をして」
「そうは言っていない」
「同じことよ!」
その声に、子供が隣室で泣き出した。
甲高い泣き声。乳母があやす声。それでもすぐには収まらない。
アーシャは目を閉じた。こめかみが痛い。
正妻になれば、全部が落ち着くと思っていた。名分も立場も手に入る。だから、少々冷たくされても、最終的には自分が家の女主人になるのだと。
でも現実は違った。立場だけでは足りない。
座った椅子を温めてくれるものが、何ひとつなかった。
人望も、教養も、使用人たちの信頼も、親族の後ろ盾もない。あるのは子だけ。
けれどその子ですら、今では「だから大丈夫」とは言ってくれない。
「お子様が」
外から侍女が言った。
「泣いておりますが」
「聞こえてるわ!」
アーシャが叫ぶ。扉の向こうが、しんと静かになる。その静けさがまた、彼女の神経を逆撫でした。
カルダンはもうこちらを見ていなかった。窓の外を向き、顎に手を当てている。
考えているふうの姿勢だったが、アーシャにはただ逃げているようにしか見えない。
「行けばいいでしょう」
彼女は吐き捨てた。
「どうせあなたは、何が泣いても自分が一番可哀想なんだから」
「アーシャ」
「行って。顔も見たくないわ」
カルダンは、その言葉に少しだけ肩を動かした。だが言い返さず、そのまま部屋を出ていった。
去り際に、子の泣き声が一段高くなる。なのに彼はそちらにも行かなかった。
アーシャはしばらく立ったまま、その閉じた扉を睨んでいた。
睨んだところで何も変わらない。わかっている。でも、そうするしかなかった。
一方、カルダンは長い廊下を歩きながら、ひどく気分が悪かった。
アーシャの言葉が耳に残っている。パールの目も残っている。
親族の名も、若い養子候補の噂も、全部が同じように頭の中を回っていた。
窓の外では庭師が枝を整えていた。庭はいつも通り整っている。屋敷もきれいだ。何ひとつ壊れてなどいないように見える。
なのに、自分だけがじわじわ削られていく感覚があった。
父は最近、以前ほど屋敷のことを相談してこない。母は冷たい。親族は勝手に動き始めた。
アーシャは不満ばかりで、子は泣く。ベルジャン家は署名まで取った。王都では噂が流れている。
何ひとつ思うようにいかない。
それでも、ほんの少し前までは、自分はまだ立て直せると思っていた。
パールに会えば。ベルジャン家が少しでも態度を和らげれば。親族へも上手く言えば。
けれど今は、どこへ手を伸ばしても先に冷たいものがある。
その時、廊下の先から叔父が歩いてくるのが見えた。
四十前後の男だ。無駄のない服装で、どこか領地の土の匂いがしそうな落ち着きを持っている。
王都ふうの派手さはないが、目の前の帳面と人をきちんと見て、淡々と片づけていくタイプだと一目でわかる。
「カルダン」
「……叔父上」
父の歳の離れた弟。親しみを込めた呼び方をしたくなかったが、他に呼びようがない。
「今、兄上に呼ばれていてな」
「そうですか」
「お前も後で来なさい」
「何を」
「王都屋敷の出入りと、来月からの人の配置だ」
「人の配置?」
「ああ。少し手を入れる」
さらりと言われ、カルダンの眉が寄る。
「勝手に」
「勝手ではない。許しは得ている」
「父上が?」
「そうだ」
その瞬間、自分の足元からまたひとつ何かが抜けるような気がした。
王都屋敷の出入り。人の配置。
つまり、使用人たちや金の流れや、客の扱いまで、この男が見始めるということではないか。
カルダンは何か言おうとして、やめた。ここで怒れば負けだと、かろうじてわかったからだ。
「……わかりました」
「うむ」
叔父はそれだけ言って通り過ぎた。その背はまっすぐで、慌ても気負いもない。
まるで前からここにいるべき人みたいに、静かに廊下を歩いていく。
カルダンはその後ろ姿を見て、初めてはっきりと理解した。自分の席のすぐ横に、もう一つ椅子が置かれたのだと。
しかもその椅子は、ただの飾りではない。必要なら、いつでももっと前へ出られる位置にある。
その頃、アーシャはようやく子のいる部屋へ向かっていた。
乳母は恭しく頭を下げたが、その顔に困惑がある。子は泣き疲れて顔を真っ赤にしていた。
「……もう」
アーシャは腕を伸ばした。
「私によこしなさい」
抱き上げると、子は少しだけ泣き方を変えた。でもすぐには収まらない。
あやしながら、アーシャはぼんやりと思う。
自分にはもう、この子しかないのだろうか。でもその子ですら、屋敷の中では“確かな切り札”ではなくなりつつあるのではないか。
そう思った瞬間、胸の奥がひどく冷えた。
座ったはずの椅子は、思っていたよりずっと冷たい。そしてその冷たさは、これからもっと増していくのだろう。
ドルメーユ侯爵家の広い屋敷は、その日も変わらず整っていた。けれどその整い方は、もうカルダンにもアーシャにも、少しも味方には見えなかった。




