幕間3 浅はか者同士の苛立ち
ドルメーユ侯爵家の王都屋敷では、その日から廊下の空気が少し変わった。
別に誰かが露骨に何かを言うわけではない。使用人たちも、古い家らしく表向きはきちんとしている。頭を下げる角度も、食器を運ぶ手つきも、部屋へ入る時の足音も、何ひとつ乱れない。
ただ、乱れないまま、少しだけ温度が下がった。
アーシャはそれを、最初は気のせいだと思おうとした。乳母が前ほど愛想よく笑わないことも、侍女が衣装部屋で返事を一拍遅らせることも、子供を抱いて庭へ出た時に、遠くの使用人たちの視線がすぐ逸れることも。全部まとめて、自分が敏感になっているだけだと。
でも、違った。
ある日の朝、支度のために呼び鈴を鳴らしても、侍女が来るのが遅かった。やっと現れた若い娘は、きちんと一礼して、言葉も丁寧だったけれど、前みたいなへつらいがなかった。
「この外套を」
アーシャが言う。
「今日は少し冷えるもの」
「かしこまりました」
侍女はそう答えた。ただ、それだけだった。
前ならもう少し、“奥様によくお似合いです”だの、“坊ちゃまもお喜びに”だの、気の利いたお追従がひとつくらいはついたのに、それがない。
アーシャは鏡の前で口紅を引きながら、ちらりと侍女を見た。
「最近、皆ずいぶんと静かなのね」
「そうでしょうか」
「そうよ」
「雨が続いておりましたので」
その返しがもう、気に入らなかった。
雨が続こうが続くまいが関係あるものか。アーシャは言い返したかったが、やめた。
最近は少しでも声を荒げると、屋敷じゅうに響く気がするのだ。そして、その響きを誰かが待っているような気すらした。
子ができて、正妻の座に収まった時。あの頃は違った。
皆が自分を見る目には、少なくとも“今後はこの人に従わねばならないのだろう”という色があった。完全な歓迎ではなくても、それなりの勢いはあった。
カルダンも熱を残していたし、自分の部屋へ呼ばれることも多かった。夜会用の品を選ぶ時も、鏡の中の女はたしかに“勝った側”に見えた。
なのに今はどうだ。真珠の留め具を返させられ、指輪も取り上げられ、葡萄色の外套まで持っていかれた。
義母は露骨に冷たくなり、カルダンは以前ほど部屋へ来なくなった。来てもどこか上の空で、子をひと目見て、すぐ不機嫌そうに去っていくことがある。
それが何より腹立たしかった。
何のためにここまでしたと思っているのか。何のためにパールを押しのけ、どんな目で見られても耐えたと思っているのか。
なのにその男が、今さら疲れた顔をして、自分にまで重たい沈黙を向けるのだ。
その日も、昼前にカルダンが部屋へ来た。子は乳母のところへ預けてある。
窓は開いていて、春の風が薄いレースを揺らしていた。庭では誰かが低木の手入れをしていて、枝を払う音が時おり聞こえる。
「何かご用?」
アーシャが先に言う。
「……少し話が」
「またその顔」
「その顔とは何だ」
「何もかも私のせいみたいな顔よ」
カルダンの眉が動く。その反応に、アーシャは胸の奥がざらついた。
以前の彼なら、そういう言い方をしても苦笑するくらいだったのに、今はすぐに不機嫌が顔へ出る。
「私だけのせいじゃないでしょう」
アーシャは言葉を重ねた。
「あなたがくれたものもあったし、あなたが何も言わなかったからそうなったのよ」
「今その話をするのか」
「今だからするのよ。だって今になって皆、私だけが悪いみたいに」
「声を下げろ」
「下げません」
アーシャは立ち上がる。絹のスカートが音を立てる。その音さえ、この部屋では少し甲高く響く気がした。
「ベルジャン家が来た時だって、あなたは私を守らなかった」
「守る?」
カルダンが低く繰り返す。
「あの場で何をどう守れと」
「少なくとも、全部私の浅はかさみたいな顔はしないでほしかったわ」
「浅はかだっただろう」
「……!」
一瞬、空気が凍る。アーシャはカルダンを見た。カルダンは言ってしまったことに少しだけ疲れた顔をしていた。
「あなた」
アーシャの声が震える。
「今、何て」
「聞こえただろう」
「私が浅はかだと?」
「……少なくとも、あの真珠をあの場でつけて出るべきではなかった」
「だって好きだと言ったのはあなたよ!」
「だからといって!」
カルダンの声が、珍しく強くなった。アーシャは一歩引く。怒鳴られたことより、その怒りの向きが自分に来たことのほうが堪えた。
「お前は少し」
カルダンは言いかけて、止まる。
「少し何よ」
「……考えが足りなかった」
「あなたにだけは言われたくないわ」
その言葉は本心だった。
考えが足りない。たしかにそうかもしれない。だが、だったらどうしてここまで来られたのか。
考えが足りない自分を、誰が止めなかったのか。カルダンではないか。義母ではないか。あの家そのものではないか。
なのに最後だけ、自分が浅いから、自分が足りないから、で片づけられるのはたまらなかった。
「親族が入るそうね」
アーシャはわざと話を変えた。
「何だ」
「皆、言ってるわ。お義父様の弟君が王都のほうも見るとか、若い親戚が近く呼ばれるとか」
「誰が言ってる」
「屋敷中が」
カルダンの顔が、そこでわずかに強張る。その顔を見て、アーシャはようやくひとつだけ優位に立てた気がした。
「知らなかったの?」
「……」
「皆もう知ってるわよ。あなた一人が平気な顔をしてるだけ」
カルダンは何も言わなかった。でもそれは、反論できない時の沈黙だった。
彼とて全く知らない訳ではなかった。だがこれほど広がっていたとは予想してなかったようだ。
アーシャは胸の奥が少しすっとするのを感じた。たとえ小さくても、彼が傷つくところを見られるのは、今の自分にはひどく大事だった。




