26 跡取りの席に、別の椅子が置かれた
雨の翌日は、空がよく晴れた。王都屋敷の庭では、昨日まで濡れていた白い石が朝日を受けて乾き、若葉の先にだけまだ小さな雫が残っている。
こういう朝は、何もかも洗い流されたように見えるのに、実際には人間のごたごたまで綺麗になるわけではない。 むしろ、晴れたぶんだけよく見える。
◇
その日、父上の執務室へ呼ばれた時、私はなんとなくそれを思った。
部屋にはもう母上と兄上、それに姉上まで揃っていた。窓は半分ほど開いていて、春の乾いた風が書類の端をほんの少し揺らしている。
机の上には封の切られた文書がいくつかと、いつもより厚い帳簿めいた束が置かれていた。
「何か来たの?」
私が訊くと、兄上が先に言った。
「来たぞ」
「どちらが」
「両方だ」
私は椅子に座りながら目を瞬いた。
「ドルメーユとラヴェルディ?」
「ええ」
母上が答える。
「ただし、今日はラヴェルディではなく、ドルメーユのほうが面白いですわ」
「母上、その“面白い”は少し」
「そうかしら」
「少し」
「でも、わからなくもない」
姉上が小さく言った。
父上が一番上の文書を指先で整えた。
「補償の一覧と受け渡しの確認書だ」
「ドルメーユ家からの?」
「そうだ。返還不能分も含め、こちらの要求に沿った形になっている」
「素直ですね」
私が言うと、兄上が鼻を鳴らした。
「素直というより、もう揉めたくないんだろう」
「ええ」
母上がうなずく。
「署名入りの謝罪を出した以上、これ以上の抵抗は傷を深くするだけと理解したのでしょうね」
父上は次の紙を持ち上げた。
「こちらは、その補償手続きを進める際に、向こうの親族筋から同席してきた者の名だ」
「親族筋?」
姉上が眉を寄せる。
「ええ。ドルメーユ侯爵の弟にあたる方ですって」
母上が言う。
「年の頃は四十前後、領地経営に長く関わってきた実務家だとか」
「へえ」
私は少しだけ身を乗り出した。
「親族が出てきたのですね」
「出てきた」
父上が短く答える。
「しかも、ただの立会人ではない」
兄上の口元が少し上がる。私はその顔を見て、ああこれは嫌なほうの話だな、と思った。嫌なのはもちろん向こうにとって、である。
「ドルメーユ家は」
父上が言った。
「当面、王都屋敷と一部領地経営にその弟君を入れるそうだ」
「……補佐役として?」
姉上が訊く。
「表向きは、そうだな」
「表向きは」
私は繰り返す。
「ええ」
母上が言う。
「古い家は、いきなり“あなたには任せられません”とは書きませんもの。“負担軽減のため”“家務整理のため”“親族の助力を得て”――たいへん上品に言い換えます」
「でも要するに」
兄上が言った。
「カルダン一人では危うい、ってことだろ」
「その通り」
私は机の上の紙を見た。跡取りの席は、一人で座るものだ。少なくとも、そう見えるように保たれているものだ。
そこへわざわざ別の椅子を持ち込むということは、その席に座った本人をもう信用しきれていないということに他ならない。
「へえ……」
私は思わず言った。
「ちゃんと効いていたのですね」
「かなり、ね」
母上が答える。
「ベルジャン家とここまで揉めたこと自体も痛い。でも、それ以上に“正妻を守れず、愛人を増長させたうえ、宝石や調度まで雑に扱わせた”という筋が悪かったのでしょう」
「親族としても、そこは見過ごせないか」
父上が言う。
「ええ。しかも一人息子ですもの」
母上の声は穏やかだった。
「このまま何も手を打たなければ、今度は“親族が黙っていた”ことになります」
姉上が静かに文書へ目を落とした。
「その方が当座、入るのね」
「ええ」
「そう……」
その声に、私はそっと横顔を見る。悲しそう、というより、少しだけ遠い顔だった。
もう自分のいた家ではないと改めて知る時の顔。でも、それは前のような痛々しさではなく、むしろきちんと距離がついた時のものに近い。
「姉上」
私は小さく呼ぶ。
「大丈夫?」
「ええ」
姉上はゆっくりうなずいた。
「びっくりしただけ。あの家が、そこまで行くとは思っていなかったから」
「私もです」
「でも」
姉上は少しだけ唇を上げた。
「当然なのかもしれないわね」
「当然です」
兄上が即答した。
「遅いくらいだ」
父上が最後の一枚を持ち上げる。
「そして、これはまだ内々の話だが」
「はい」
「ドルメーユ家では、将来的な養子の候補として、同じ親族筋から有能な若い者を一人、近く王都へ呼ぶ可能性が高いそうだ」
「来た」
私は思わず言った。
「そこまで」
「まだ決定ではない」
父上が言う。
「ただ、“万一に備えて家の中へ慣らす”という発想が出ている時点で、かなり進んでいる」
「ええ」
母上が言う。
「一人息子にすべてを任せるつもりなら、そんな話は出ませんもの」
兄上が椅子の背に寄りかかった。
「要するに、カルダンはもう“唯一の跡取り”じゃなくなったわけだ」
「そうね」
母上が答える。
「少なくとも、家の中では」
「それ、かなり痛いですね」
私は言う。
「ええ。とても」
しばらく誰も口を開かなかった。春の風だけが、開けた窓からさらりと入ってくる。
昨日の雨を含んだ匂いはもう薄く、代わりに乾いた木の匂いがした。執務室の中は明るいのに、机の上の文書だけが妙に冷たく見える。
正妻を追い出した。愛人を座らせた。子ができた。
だから勝った、と思ったのかもしれない。
でも実際には、そこから家の中がぐずぐずになり、親族が入り、跡取りの席に別の椅子が置かれる。
それはたぶん、平民に落ちるだの追放されるだのより、よほどその世界らしい罰だった。
「アーシャは」
私はふと思って口にした。
「どうなるのかしら」
「どうもならないでしょうね」
母上があっさり言う。
「座ってはいるでしょうけれど」
「座ってるだけ、ですね」
「ええ。しかも、その椅子は前よりずっと冷たいはずですわ」
私はちょっとだけ想像した。
正妻になったはずの女。でも家の中では歓迎されず、義母には冷たくされ、夫は苛立ち、親族は別の若い男を“もしもの備え”として入れようとしている。
たしかに、冷たい。
「じゃあ共倒れですね」
私が言うと、兄上がうなずいた。
「きれいに、な」
「兄上、そこは“きれい”と言っていいのかな」
「いいだろ」
「まあ、気持ちはわかります」
姉上が言ったので、私は思わずそちらを見た。姉上は少しだけ笑っていた。
ああ、と思う。笑えるところまで来たのだ。
全部が癒えたわけではない。許したわけでもない。でも少なくとも、あの家のことをもう“自分だけが押しつぶされる場所”として見てはいない。
父上が文書をまとめる。
「これでドルメーユの件は、表向きには一区切りだ」
「表向きには」
私は繰り返す。
「ええ」
母上が答える。
「家の中での軋みは、これからのほうが本番でしょうけれど」
「見に行く気はありません」
私は即答した。
「ないわね」
姉上も言う。
「ええ。もう十分です」
その“もう十分”は、少し前なら寂しさや諦めが混じったかもしれない。でも今の姉上の声には、ちゃんと終わらせる側の響きがあった。
私はそれが嬉しかった。
「では」
兄上が腕を組み直す。
「次だな」
「何が」
私が訊くと、兄上がにやりとした。
「もう一人の馬鹿だ」
「ああ」
そうだった。ドルメーユの一件がようやく区切れたところで、ラヴェルディの長男――コレリオがまともになったわけではない。
領地へ下げられようが、事業から外されようが、あの手の人は最後の最後まで“自分の気持ちは本物だった”みたいな顔をしがちだ。
そして、そういう夢見がちな馬鹿ほど、はっきり壊してやる必要がある。
私は机の上の文書から顔を上げ、姉上を見た。姉上も、ちょうどこちらを見ていた。
儚げだの何だのと勝手に思われてきた人の顔ではない。静かで、柔らかくて、でもちゃんと芯のある顔だった。
たぶん、横恋慕の馬鹿がいちばん見誤るタイプだ。
私はちょっとだけ口元を上げ、「そうですね」と言う。
「次は、あちらの夢を壊しましょうか」
窓の外では、雨上がりの光が庭の白い石に反射していた。
ドルメーユ家の末路は、派手ではない。でも、跡取りの席に別の椅子が置かれた時点で、もう十分に終わっている。
だからこそ、次はもう少し別の壊れ方をする馬鹿の番だった。




