23 金で済むと思っているなら、まだ甘い
「では、文面は」
母上がすぐ話を戻す。
「“補償は補償、謝罪は謝罪”を明確に分けましょう」
「そうだな」
父上が答える。
「さらに、名誉の件を曖昧にしたまま内々の決着はあり得ない、と」
「ええ」
「兄上」
私はふと思いついて言う。
「ドルメーユ家って、親族からの目も今あまりよろしくないのでは?」
「だろうな」
兄上が言う。
「一人息子のやらかしで、ベルジャン家と揉めてるうえに、愛人の件まで漏れてる」
「なら、なおさら署名を嫌がるでしょうね」
「当然だ」
重ねて母上が答える。
「文書にすれば、親族へも誤魔化しが利きませんもの」
そこだ。私はそこで、ようやく少し息が軽くなるのを感じた。嫌がっている理由が見えたからだ。
ただの見栄ではない。この先、家の中で不利になるからだ。親族に言い逃れしにくくなるからだ。
将来、もっと大きな話になった時に“あの時こちらが認めたではないか”と突きつけられるのが嫌なのだ。
つまり、効いている。それがわかっただけで、少し気分がいい。
「アンバー」
姉上が私を見た。
「何だか、少し機嫌が戻ったわね」
「ええ」
「どうして?」
「嫌がっているところが見えたので」
私は正直に言う。
「向こうの」
「ええ。ああ、そこが痛いのね、とわかると、押しがいがあります」
「まあ」
母上が扇で口元を隠す。
「いい言い方ではありませんけれど、間違ってはいませんね」
「母上」
「何かしら」
「好きです」
「知っています」
兄上がまた息をついた。でもその顔は、少しだけさっきよりましになっていた。
怒ってはいる。けれど怒りの置き場所が定まると、兄上はかえって落ち着くのだ。
◇
夕食のあと、私は姉上の部屋へ行った。窓は半分だけ開いていて、春の夜風が薄いカーテンを揺らしている。
遠くで馬車の音がした。王都の夜は領地ほど静かではないけれど、そのざわめきも今の私には心地よかった。
姉上は寝台の脇の小机に座って、返ってきた真珠の留め具を手にしていた。
「姉上」
「何?」
「見てるの?」
「ええ」
私は隣へ立つ。留め具は小さくて、上品で、やっぱり姉上によく似合いそうだった。
少し傷がついているのが悔しいけれど、それでも品のよさは消えない。
「まだ少し擦れてるわね」
姉上が言う。
「ええ」
「でも、思ったほど悲しくないの」
「そうなの?」
「前はね」
姉上は留め具を指先で転がす。
「こういうものを見ると、楽しかった時や、ちゃんとしていれば守られたかもしれない何かを思ってしまっていたの」
「……うん」
「でも今は違うわ。これは戻ってくるべきものだった、そう思うだけ」
「それでいいのよ」
私は言う。
「ええ。たぶん、そうね」
姉上はそう言って、小箱へ留め具を戻した。
「アンバー」
「何?」
「今日、カルダン様が来たでしょう」
「ええ」
「来る前は、少しだけ怖かったの」
「うん」
「でも、顔を見たら」
「見たら?」
「案外、空っぽだったわ」
私は思わず笑いそうになって、でも我慢した。
姉上は真面目に言っている。真面目に言っていて、そのうえでたぶん、きちんと見抜いたのだ。
「謝りに来たのではなく」
姉上が続ける。
「困ったから来たのだと、すぐわかった」
「ええ」
「それがわかったら、前よりずっと軽く見えたの」
「よかった」
「良かった、のかしら」
「ええ」
私ははっきり頷く。
「姉上があの人を必要以上に大きく見なくなったなら、それはきっと良いことよ」
「そうね」
部屋の灯りは柔らかく、姉上の横顔に淡い影を落としていた。
儚げ、と人は言う。たしかに姉上はそう見える時がある。
でも私は知っている。この人は、見かけよりずっとしぶとい。
ただ、そのしぶとさを前に出す機会がこれまでなかっただけだ。
「明日は何かある?」
姉上が訊く。
「父上が返書を出して」
「ええ」
「そのあと、たぶん向こうがまた嫌がるわ」
「でしょうね」
「それで」
私は少し笑う。
「兄上が面白くない顔をする」
「それはいつものことでは」
「最近は特に、よ」
姉上も笑った。その笑いに、ようやく少し熱が戻っていた。
やわらかくて、でも前みたいにただ受け流すだけの笑いではない。
私はその顔を見て、心の中でひとつ決める。
ドルメーユ家には、まだまだ下がってもらう。ラヴェルディ家のほうも、長男が引っ込んだから終わり、にはしない。
どちらも、こちらを軽く見た分だけ、ちゃんと重みを知ればいい。
窓の外の夜は静かだった。でもその静けさの下で、父上はもう執務室に戻って返書を書いているはずだ。
金で済むと思っているなら、まだ甘い。ベルジャン家は、そこから先をきっちり教えるつもりでいた。




