24 古い家は、ようやく自分たちの名前で謝った
二日後の朝、王都は珍しく雨だった。細い雨筋が庭の若葉を濡らし、石畳にやわらかな灰色を落としている。
晴れた日のベルジャン家の屋敷は、鉱石みたいに明るく硬く見えるのだけれど、雨の日は少しだけ輪郭がぼやける。私はそういう朝も嫌いではない。
ただし、今日に限ってはその曖昧さが似合わなかった。父上が朝食の席で言ったのだ。
「ドルメーユ侯爵夫妻が来る」
「……夫妻で?」
私は思わず聞き返した。
「ええ」
母上が紅茶を置きながら答える。
「ようやく、逃げきれないと理解なさったのでしょうね」
「カルダン様は?」
姉上が静かに訊く。
「来ないそうだ」
父上が言う。
「当主夫妻のみ」
「へえ」
兄上が鼻を鳴らす。
「息子は隠すのか」
「隠す、というより」
母上が言った。
「これ以上喋らせると危険なのでしょうね」
それはたぶん、その通りだった。
テーブルの中央にはまだ温かなパンが並び、窓の外では雨粒が細かく跳ねている。何もかも静かなのに、空気だけは妙に張っていた。
父上はいつも通り。母上もいつも通り。兄上はだいぶ面白くない顔。姉上は落ち着いて見えるけれど、指先だけがカップの持ち手を少し強く握っていた。
「姉上」
私は小さく声をかける。
「無理なら席を外しても」
「いいえ」
姉上は首を振った。
「ここまで来たら、きちんと聞くわ」
「そう」
「ええ。もう、誰かに勝手に話をまとめられるのは嫌なの」
その言い方が好きだった。
儚げだの、やわらかいだの、そういう言葉で勝手に包まれてきた人が、自分でそう言うのは強い。私は何も言わず、ただうなずいた。
◇
午前のうちに応接間が整えられた。今日は小応接間ではなく、正面客間だ。
大げさすぎず、でも軽い訪問ではないとわかる部屋。窓は大きく、雨に濡れた庭がよく見える。
壁際には鉱石細工の花台が置かれ、母上の趣味で白い花が控えめに飾られていた。
私はそういう細かい配置を見て、ああ、これは母上が完全に勝ちにいっている時の部屋だな、と思う。
ドルメーユ侯爵夫妻が通されたのは、昼を少し回った頃だった。
先に入ってきた侯爵は、カルダンよりずっと体格のよい人だった。髪には白いものが混じり、目元には年相応の重みがある。農地の広い家を長く治めてきた男、という顔だ。
普段なら威厳があるのだろう。でも今日は、その威厳の下に、拭いきれない疲れが見えた。
後ろの侯爵夫人は、この前よりさらに静かだった。静かで、冷えていて、そして少しだけ痩せたようにも見える。 この二日で、たぶん家の中がだいぶ荒れたのだろう。
「ご足労を」
父上が言う。
「急なお願いにもかかわらず」
ドルメーユ侯爵が答える。
「こちらこそ、このたびは」
座るまでの動きに少しの淀みもなかった。やはり古い家なのだ。どれだけ押されても、礼法だけは崩さない。
でも私は、それが少し滑稽に思えた。礼法を崩さずに、やってきたことはあれなのだから。
母上はすぐに本題へ入った。
「本日は、文書をお持ちいただけたと伺っております」
「ええ」
ドルメーユ侯爵夫人が答えた。
「当家としての見解と、謝罪を」
その言い方は、以前の“行き違い”や“穏便に”よりはましだった。少なくとも、今日は最初から“謝罪”という語が出ている。出ているだけでも進歩だ。
侯爵が封書を差し出し、父上がそれを受け取る。父上は中を確かめ、ざっと目を通し、それから母上へ渡した。
母上も同じように読み、私たちにはまだ回さず机へ置いた。
「署名は」
父上が言う。
「ございます」
侯爵が答える。
「私と、妻の」
「結構」
その“結構”で少しだけ、相手の肩が落ちたのがわかった。たぶんそこが、ひとつ目の山だったのだ。
古い家の当主夫妻が、自分たちの名で謝罪文に署名する。簡単ではないだろう。
けれど、簡単でなくてもやらせたかったのはこちらだ。それをわかっているから、私は少しだけ胸がすく。
「では」
母上が穏やかに言った。
「お言葉でもいただきましょうか」
ドルメーユ侯爵夫妻の表情が、ほんのわずかに固まる。私は心の中で、やっぱりそう来る、と思った。
紙だけ置いて終わり、になどするはずがない。母上がそれで満足する人なら、ここまで話は進んでいない。
侯爵が一度だけ咳払いし、姉上へ向き直った。
「パール嬢」
「はい」
姉上の声は落ち着いていた。
「このたびは、当家の不手際により、あなたに大変な苦痛と不名誉を」
「不手際」
兄上が低く呟いた。私は隣で、うん、そこは引っかかる、と思った。
でも母上はまだ止めない。父上も動かない。姉上も口を開かない。侯爵は続ける。
「……ならびに、持ち物の管理において不適切な事態を招きました」
「持ち物の管理」
今度は私が心の中で繰り返す。すごい。ここまで来ても、まだ少しずつ逃げる。
母上が、とうとう扇を閉じた。
「ドルメーユ侯爵」
「はい」
「その言い方では、まるで鍵の管理でも誤ったように聞こえますわね」
「……」
「違いますでしょう?」
侯爵は黙った。侯爵夫人がそこで、小さく息を吸う。
そして、夫より先に口を開いた。
「違います」
部屋の空気が少し動いた。侯爵夫人は姉上を見たまま、はっきりと言う。
「パールさん。あなたが在るべき位置を、私どもは守れませんでした」
「……」
「カルダンの軽率さを止めきれず、アーシャの増長も許し、その結果として、あなたの持ち物まで軽んじられた」
「ええ」
姉上が静かに答える。
「そうでしたわね」
「そのことについて、当家として謝罪いたします」
私は少しだけ目を見開いた。侯爵夫人はやっぱり、何もわかっていない人ではないのだろう。
ただ、わかっていて止めきれず、ここまで来てしまった。だからなおさら、この言葉は重い。
侯爵のほうも、そこでようやく腹をくくったらしい。
「その通りだ」
と、低く言った。
「当家は、お前を正妻として十分に遇さなかった。結果として、名を傷つけた。それについて、私からも謝罪する」
部屋の外ではまだ雨が降っていた。音はやわらかいのに、部屋の中の言葉だけが妙に硬く落ちる。




