22 穏便と並ぶ大好きな言葉
ベルジャン侯爵家の王都屋敷では、その日の夕方もきちんとお茶が出た。
うちの家は、誰かが馬鹿をやらかしても食事とお茶の時間までは乱れない。乱れないからこそ、逆に本気で怒っている時は怖いのだと私は思っている。
西向きの小食堂には、夕方の光が薄く差していた。磨かれた銀のポット、薄い磁器のカップ、蜂蜜の色をした焼き菓子。姉上も今日は一緒だった。少し疲れた顔ではあるけれど、昨日までみたいな青白さはない。
兄上は焼き菓子を二つ取って、一つだけ食べた。たぶんまだ足りないのだろう。甘いものではなく、怒る理由が。
「ドルメーユの家令、最後の顔が面白かったな」
兄上が言う。
「兄上」
私は言った。
「そこで“面白かった”は少し」
「そうか?」
「少し」
「まあ、面白くはありましたけれど」
母上がさらりと言う。
兄上が私を見る。ほら見ろ、と言いたげな顔だったので、私は目をそらした。
その時、父上が入ってきた。 執務を終えたばかりらしい。濃い色の上着の袖口を整えながら席につく。その横顔を見ただけで、私はなんとなくわかった。
何か来たのだ。
「父上?」
「来た」
やっぱり、と思う。
「ドルメーユですか」
「そうだ」
父上は一通の書状を机へ置いた。厚手の紙に、ドルメーユ侯爵家の封蝋。昨日までより少しだけ丁寧に見えるのは、気のせいではないだろう。
「ずいぶん早いですね」
姉上が言う。
「早くしなければならないと、少しは理解したらしい」
父上が答える。母上が封を切った。
紙を開く音が静かな食堂によく響く。私はお茶に口をつけるふりをしながら、母上の目の動きを見ていた。
母上はこういう時、眉を寄せない。寄せなくても、中身の機嫌はだいたいわかる。
「どうです?」
兄上が訊く。
「予想通りですわね」
母上が言う。
「物の返還と補償については誠意をもって対応する。けれど、署名入りの謝罪文は家の体面に関わるため難しい。代わりに、内々での話し合いを望む、ですって」
「出た」
私は思わず言った。
「内々」
「便利な言葉ですね」
姉上が小さく笑う。
「最近よく聞くわ」
「ええ。穏便と並んで、向こうの大好きな言葉でしょう」
父上は黙ったまま、母上から紙を受け取った。兄上が焼き菓子の残り半分を口へ放り込み、いっそ清々しいほど不機嫌な顔で言う。
「要するに、金は出すから黙れってことだな」
「かなりわかりやすく言えば、そうね」
母上が答える。
「品を返す。傷んだぶんは金に換える。だから文書は残すな。つまりそういうことです」
私は机の上の木目を見つめた。金で済むと思っている。やっぱりそう来た。
いや、来るだろうとは思っていた。あの家はそういうところだ。
古い家の論理と体面で、傷んだものも傷つけたものも全部まとめて帳簿の上へ置いて済ませたがる。でも、実際に文面にされると腹が立つ。
「姉上」
私は訊いた。
「嫌な読み方ですけれど、いま一番傷つきます?」
「いいえ」
姉上は少し考えてから答えた。
「嫌ではあるわ。でも、驚かない」
「それはよかったのか悪かったのか」
「悪いでしょうね」
姉上は静かに言った。
「それだけ、あの家がどういう家だったかを、もう私もわかってしまったということだもの」
その言い方に、私は少しだけ安心した。前なら姉上は、自分が傷ついたかどうかより“家のためにはどう収まるべきか”を先に考えたかもしれない。
でも今は違う。ちゃんと“嫌だ”と知っていて、そのうえで落ち着いている。それはたぶん、かなり大きい。
「父上」
私は顔を上げる。
「どうなさいます?」
「同じだ」
父上は短く言った。
「署名入り謝罪は譲らない」
「ええ」
母上が頷く。
「ここで下げたら、向こうは“やはり押せば折れる”と学ぶだけですもの」
「それは嫌です」
私は即答した。
「私もです」
兄上が言う。
「姉上を雑に扱ったうえで、最後まで体面だけ守らせるのは気に入らん」
父上は書状を畳んだ。
「返書を書く」
「今日のうちに?」
兄上が訊く。
「今日のうちに」
「父上、好きです」
私が言うと、兄上が呆れた顔をした。
「お前、それ父上にも言うのか」
「本当ですもの」
「知っている」
父上が平然と答える。私は一瞬だけ目を丸くし、それから吹き出した。
兄上も姉上も、母上まで少しだけ笑う。父上はそんな私たちを見て、ほんのわずかに口元をゆるめた。
こういうところだ。こういう、静かなくせにちゃんと応えてくるところが、うちの人たちはずるい。




