幕間2 こんなはずではなかったのに
「そこまで言うのか」
「言いますとも。あなたが一人息子であることと、安心して家を任せられることは別です」
「母上」
「ベルジャン家の娘を追い出し、愛人を据え、その愛人が元妻の品を身につけていた。いま王都に流れているのは、そういう話です」
「噂に過ぎません」
「噂で済めば結構」
その言い方は、ひどく皮肉だった。
「済まないから困っておりますのよ、皆」
そこへ扉が勢いよく開いた。アーシャだった。頬を上気させ、髪も少し乱れている。
胸元にはさすがに真珠の留め具はない。代わりに、急いで選んだのだろう派手な色石の首飾りをしていた。
だがそれがかえって、昨日の件を気にしていると示しているようで痛々しい。
「お義母様」
彼女はカルダンより先に母を見た。
「坊やが泣き止まないのに、乳母が」
「アーシャ」
侯爵夫人の声は低かった。
「今はそういう話ではありません」
「でも」
「今は、です」
アーシャはそこでカルダンに気づいた。
「あなた、行ってきたの」
「ああ」
「それで?」
「……駄目だった」
「駄目だった?」
彼女の声が一段高くなる。
「何しに行ったのよ」
「アーシャ」
「だってそうでしょう!? 向こうがあんなに騒いでいるのに、あなたまで何もできないなんて」
カルダンの顔が強張る。母の前でその言い方をされるのは、さすがに面白くなかった。
「何もできない、とは何だ」
「そのままよ。あの女に会いに行けば何とかなるみたいな顔をして出ていったくせに」
「あの女と言うな」
「どうして? 今さら庇うの?」
「そういう話じゃない!」
「じゃあどういう話よ!」
子供の泣き声が、また一段大きくなった。薄暗い小客間に、その金切り声みたいな泣き声だけが不釣り合いに響く。
カルダンはひどく苛立った。母の冷たい視線も、アーシャの甲高い声も、子の泣き声も、全部が同時に責め立ててくるようだった。
「おやめなさい」
侯爵夫人が言った。
「ここで喚いてどうなさるの」
「だって、お義母様」
「あなたも少し黙りなさい、アーシャ」
アーシャは唇を噛んだ。その顔には、怯えと不満と悔しさがごちゃまぜになっている。
カルダンはそれを見て、ふと冷めた気持ちになった。
前は違った。前のアーシャはもっと輝いて見えた。自分だけを見て、笑って、甘えて、正妻にはない熱をくれる女に思えた。
だが今、目の前にいるのは、王都の名家の屋敷で場違いに声を荒げる、少しみっともない女だった。
そのことに気づいてしまった自分に、カルダンはまた腹が立った。それではまるで、自分が飽きたみたいではないか。
自分が選び、自分がここまで持ち込んだのに。
「ああ、そういえば弟君は」
カルダンは顔を上げる。
「何を言うつもりですか」
「さあ」
侯爵夫人は冷ややかに答える。
「しばらく誰かを手元に置いて学ばせるくらいは言うかもしれませんわね」
「誰かを?」
「ええ。万一に備えて」
アーシャが、そこで目を見開いた。
「万一って何ですの」
「そのままの意味です」
侯爵夫人はアーシャを見もしない。
「家というものは、継ぐ者が不安定であれば備えます」
「でも坊やがいるじゃない」
「まだ乳飲み子です」
「でも、カルダン様の子で」
「そうですわね」
その“そうですわね”には、まるで温度がなかった。
アーシャはその場で立ち尽くした。自分の切り札だと思っていたものが、ここではそこまで強くないと今さら思い知ったのだろう。
正妻の座には収まった。子も産んだ。それなのに、誰も安心して従わない。
それがこの家の現実だった。
カルダンはそれを見て、急にひどく疲れた。
「……もういい」
彼は言った。
「もう今日は、いい」
「よくありません」
母は即座に返した。
「ですが、今日以上に何かを悪くしないためには、あなたは自室へ戻るのが一番です」
「母上」
「これは命令です」
カルダンは何も言えず、踵を返した。廊下へ出ると、泣き声がまだ聞こえていた。
使用人たちの気配もある。誰も正面からは見ないが、見ていないわけでもない。その空気が鬱陶しかった。
曲がり角の窓から庭が見える。ドルメーユ家の王都屋敷の庭は、手入れの行き届いた芝と低木が広がっていて、いかにも古い土地持ちの家らしい落ち着きがあった。
だがカルダンには、今日それがひどくよそよそしく見えた。屋敷の中が、自分の居場所ではないみたいだった。
小客間では、アーシャがとうとう泣き始めていた。
「こんなはずじゃなかったのに」
彼女はしゃくりあげながら言う。
「私はただ、ちゃんと認められたかっただけなのに」
「認められたかったなら」
侯爵夫人は立ち上がりながら言った。
「最初から、もう少し慎みなさい」
アーシャは顔を上げた。
「慎み?」
「ええ。勝ったと思って浮かれた女は、だいたいそこで足を滑らせます」
「……!」
「あなたは、まさにそうでした」
そのまま侯爵夫人は部屋を出た。残されたアーシャは、泣きながら子の声のする方を見た。
けれどすぐには動かなかった。動けなかったのかもしれない。
正妻になったはずだった。けれど、なってみた先にあったのは、周囲の冷たい目と、夫の苛立ちと、義母の軽蔑と、泣きやまない子だけだ。しかも今では、親族の従兄の名まで出てきた。
その現実は、さすがのアーシャにも重かった。




