幕間1 さてその頃ドルメーユ家では
ベルジャン侯爵家の王都屋敷を辞したあと、カルダンは帰りの馬車でほとんど口を利かなかった。
王都の石畳を車輪が刻む音だけが、やけに耳につく。窓の外では春の陽がまだ明るく、通りの人々は穏やかに行き交っているのに、馬車の中だけは妙に息苦しかった。
真正面から斬られた、という感覚があった。
怒鳴られたわけではない。責め立てられたわけでもない。ベルジャン家はむしろ静かだった。
だからこそ、余計に堪えた。
侯爵に言われたこと。夫人に見られた目。サフィールのあからさまな軽蔑。そして何より、パールの声。
――今でも私があなたを助けると思っているのですね。
あれが、耳に残っていた。
◇
ドルメーユ侯爵家の王都屋敷へ戻ると、玄関の先で執事が一礼した。
「お帰りなさいませ、カルダン様」
「母上は」
「青の小客間に」
それだけで、嫌な予感がした。母があの部屋を使う時は、だいたい機嫌がよくない。
壁布の色が落ち着いているからだの、夕方でも薄暗すぎないからだの理由はあるのだろうが、カルダンにとっては“叱責の部屋”に近かった。
案の定、扉を開けるとドルメーユ侯爵夫人は椅子に座ったまま、ひどく静かな顔で息子を見た。
「それで」
母は言った。
「どうでしたの」
「……パールとは話した」
「そう」
「だが、思ったより」
「思ったより?」
「頑なだった」
言った瞬間、自分で馬鹿なことを言った気がした。母の目が細くなる。
「《《頑な》》」
「……」
「あなた、本気でそう思っておりますの」
カルダンは返事をしなかった。返事をしなかったのは、言い返せなかったからだ。
パールは頑なだったのではない。ただ、もう昔のように黙ってはいなかった。それだけだ。
なのに自分でもまだ、相手が冷たかった、強情だった、そういう言葉へ逃げかけている。
母は深く息をついた。
「あなたは昔から、自分に都合のいい言葉を選びすぎます」
「母上」
「ベルジャン家へ出向いて、何かひとつでも事態をましにできましたの?」
「……」
「できておりませんでしょう」
カルダンは立ったまま拳を握った。
腹が立たないわけではなかった。だが、その腹立たしさが誰に向いているのか、自分でもよくわからない。
母に対してなのか、ベルジャン家に対してなのか、それとも、ここまで来てしまったことそのものになのか。
「父上は?」
「執務室です」
「私から」
「おやめなさい」
母は即座に言った。
「今のあなたが行っても、火に油です」
「ではどうしろと」
「黙っていなさい」
母の言葉は冷たかった。
「少なくとも、今日これ以上は余計なことをなさらないで。あなたはもう、何かを取り繕おうとするたびに事態を悪くしております」
「……そこまで」
「そこまでです」
ぴしゃりと切られ、カルダンはとうとう口を閉ざした。
その時、廊下の向こうで子供の泣き声がした。まだ赤子に近い、甲高い泣き声だった。アーシャの子だ。カルダンの子でもある。
最初にそれを知った時には、たしかに舞い上がった。正妻との間には生まれなかった子。自分だけを見上げ、泣けば抱き上げられ、未来を約束する存在。
けれど今、その泣き声はひどく刺々しく聞こえた。
「アーシャは」
カルダンが訊く。
「部屋に」
母は言ったきり、ほんの少し眉をひそめた。
「……不機嫌ですわ」
「それは、子供が」
「子供のせいではありません」
母の声音に、わずかな軽蔑が混じる。
「あなたが余計なものを与え、余計な顔をさせた結果です」
「与えたとは」
「真珠の留め具」
「……」
「指輪」
「……」
「外套まで直させておいて、今さら何を」
カルダンは視線を逸らした。
たしかに自分が明確に“これを使え”と言ったものもあった。だがそうでないものもある。
アーシャが勝手に身につけ、気づいた時には今さら取り上げにくかったものもある。だから、自分だけが悪いというのは違うと思いたかった。
だがそれを口にしても、母は納得しないだろう。
「母上は」
カルダンはようやく絞り出す。
「アーシャをどうしたいのです」
「どうもしたくありません」
母の返事は冷え切っていた。
「できれば、最初から表へ出したくもなかった。けれど、あなたがああまで入れあげて、しかも子までできた」
「……」
「だから座らせたのです。好きで座らせたのではありません」
その言葉は、カルダンの胸にも少し刺さった。
好きで座らせたのではない。
たしかにそうなのだろう。家の中でも、親族の間でも、アーシャは歓迎されてはいない。
正妻がいた席へ、そのまま据えられた女。しかもそのやり方があまりに露骨だった。
たとえ子がいても、すんなり受け入れられるはずがない。ただ、その現実を直視するのは不愉快だった。
「親族から使いが来ております」
母が続けた。
「明日の夕刻、お父様の弟君が見えるそうよ」
「叔父上が?」
「ええ。あなたの件も含めて、少し話があるのでしょうね」
「私の? 何か…?」
「まだわかりませんの?」
母はそこでようやく、息子を憐れむように見た。
「あなた一人では危うい、と言いたいのです」
カルダンは、初めてはっきり顔をしかめた。




