21 思った以上に駄目
「私は」
カルダンの喉が上下する。
「パール殿への配慮を欠いたことを」
「配慮」
私は繰り返した。
「ずいぶん便利な言葉ですね」
「アンバー」
「はい」
でも、母上もあまり止める気はなさそうだった。
「配慮を欠いた、では軽すぎます」
母上が穏やかに言う。
「あなたは正妻を守らず、愛人の増長を許し、その結果としてパールの私物にまで手が及ぶことを放置した」
「……」
「それを“配慮不足”とは言いません」
カルダンの指が、わずかに握られた。でも反論はしない。
いや、できないのだろう。ここで何を言っても、昨日の真珠と指輪がある限り、ひっくり返らない。
父上がそこで口を挟んだ。
「で、本日の用件は結局何だ」
「……謝罪と」
「もう一つあるな」
「……穏便な解決を」
「やはり」
兄上が吐き捨てるように言った。カルダンは兄上を見ず、父上だけを見たまま続ける。
「これ以上、文書や噂が先へ進めば、双方にとって」
「双方?」
父上が低く言う。
「ドルメーユ家にとって、の間違いではないか」
カルダンはそこで、初めてはっきり顔をこわばらせた。その反応を見て、私は心の中でうなずく。
この人はここまで来ても、まだ“双方にとって”と言えば聞こえがいいと思っている。自分の家の体面と、姉上の受けた扱いを同じ皿に載せられると思っている。
やっぱり駄目だ。駄目すぎる。
「カルダン様」
姉上が言った。
「あなたは、今でも私があなたを助けると思っているのですね」
「助ける、とは」
「ええ。そうでしょう?」
姉上の目は静かだった。
「私に会いに来たのは、謝罪のためではなく、私が口を閉ざせば少しは丸く収まると思ったから」
カルダンは何も言わなかった。否定しない、ということは肯定と大差ない。
部屋の空気がまた少し冷える。姉上はそれを正面から受け止めたまま、ゆっくりと立ち上がった。
私は一瞬、姉上の袖に触れかけた。でもやめる。今の姉上は、自分で立っている。
「カルダン様」
「……パール」
「もう二度と、私に“穏便に”を求めないでくださいませ」
「……」
「あなた方は、穏便であるべき時にそうしなかった。今になってそれを望むのは、ただの身勝手です」
姉上の声は、やっぱり静かだった。静かで、きれいで、でも容赦がなかった。
カルダンがそこで、一歩だけ前へ出た。
「待ってくれ」
兄上の顔が即座に変わる。私は思わず身構えた。でもカルダンは、そこから先へは来なかった。
来られなかったのだろう。父上がほんの少し視線を上げただけで、その足が止まった。
「私は、そこまで」
「そこまでではない?」
姉上が首を傾げる。
「では、どこまでだったのですか」
また同じ問い。でも今度のそれは、さっきよりずっと冷たかった。
カルダンは答えられない。答えられないまま、姉上を見ている。
たぶん今ごろになって、少しだけわかったのだろう。この場に来ても、昔の姉上には戻らないことが。
黙って受け入れてくれる妻は、もうそこにいないことが。
遅い。本当に遅い。
「帰りなさい」
父上が言った。
「本日の話は以上だ」
「侯爵」
「穏便を望むなら、まず当主夫妻に署名させなさい」
父上の声音は変わらない。
「話はそれからだ」
「……」
「そして今後、パールへ直接会おうとするな。今日は本人の意思で会わせたが、次はない」
「……承知、しました」
その“承知”も、どこか苦かった。当然だ。
自分ではまだ何とかなると思って来たのに、結局何ひとつ取り戻せなかったのだから。
◇
カルダンが去ったあと、しばらく誰も口を開かなかった。
窓の外では、春の午後の光が変わらずやわらかい。庭の木々は穏やかに揺れている。あんな男がここへ来たことが、少しも景色に似合わなかった。
最初に息を吐いたのは兄上だった。
「思った以上に駄目だな」
「ええ」
母上が答える。
「謝罪の形をした保身でしたね」
「形だけは整っていました」
私は言った。
「中身はすかすかでしたけれど」
「アンバー」
「はい、少しだけゆっくりです」
「ええ。よくできました」
少し褒められた。私はそこで姉上を見た。
姉上はまだ立ったままだった。白い指先を軽く握っている。
でも、顔はもう青くなかった。むしろ、少しだけ拍子抜けしたようにも見える。
「姉上」
「何?」
「大丈夫?」
「ええ」
姉上はゆっくり座りなおした。
「なんだか……もっと怖いかと思っていたの」
「怖かった?」
「最初は少し。でも、途中から」
「途中から?」
「こんな人だったのね、と思ったら、怖くなくなったわ」
私はそれを聞いて、胸の奥が少し軽くなった。
そうだ。見切れたのだ。
憎しみだけではなく、失望でもなく、ちゃんと“こんな人だった”と見切れた。たぶんそれは、姉上にとってかなり大きい。
母上が静かに頷く。
「結構です」
「ありがとうございます、母上」
「ただし、次があればもっと短く切ってよろしいですよ」
「これ以上短く?」
「ええ。“お帰りください”だけでも」
「母上」
私は思わず笑った。
「好きです」
「知っています」
兄上が呆れたように眉を上げる。でも、その少し向こうで、父上の目もわずかに和らいでいた。
カルダンは来た。そして、やっぱり自分のために来ただけだった。
でも、それでよかったのかもしれない。姉上が、もう自分の目でそれを確かめられたのだから。
穏便に、なんてもう言わせない。次に来るのは、たぶん向こうの正式な返答だ。
そしてそこから先は、今よりもっとはっきりした形で、ドルメーユ家の首が締まっていく。




