19 馬鹿がのこのこやってくる
屋敷へ戻ると、珍しく兄上が玄関近くまで来ていた。
「お帰り」
「兄上、どうなさいましたの」
「父上に用があってな。あと、お前たちが戻ったら聞けと言われた」
「何をです?」
「ラヴェルディから、また文書だ」
私はその場で顔をしかめた。
「またですか」
「今度はコレリオ本人ではない」
兄上は肩をすくめる。
「父親だ」
「少し安心しました」
「するほどでもない」
小応接間へ行くと、父上がすでにその文書を机の上へ置いていた。姉上も呼ばれている。
今日は顔色がさらにいい。少なくとも、茶会へ出た頃の私より落ち着いて見えた。
「戻りました」
「ご苦労」
父上が言う。
「噂はどうだ」
「静かに回り始めております」
母上が答える。
「ラヴェルディの長男は領地へ。ドルメーユのほうは、愛人の件が少し」
「そうか」
父上はうなずき、文書を軽く叩いた。
「こちらはラヴェルディ侯爵からのものだ。要点だけ言えば、息子を当面、王都から外し、事業からも遠ざける。加えて、以後アンバーへの接触は家として厳禁にする、とのこと」
「まっとうですね」
私は言った。
「まっとうだな」
兄上も同意する。
「本人以外は」
姉上がそこで小さく息を漏らした。
私は横を見る。姉上は少しためらってから口を開いた。
「……アンバー」
「何?」
「これで、あなたのほうは少し片づいたのかしら」
「少しは」
「よかった」
「でも完全ではないわ」
「ええ、そうね」
姉上の言葉には、少しだけ悔しさが混ざっていた。
自分の件ばかりに皆を巻き込んでいる、とはもう思っていない顔だ。でも私のことも、きちんと気にしている。
私はその手を軽く叩いた。
「大丈夫。馬鹿が領地へ行こうが何しようが、私は困りませんもの」
「そうね」
「むしろ、しばらく王都で顔を見ずに済むなら助かります」
「それはたしかに」
姉上が少し笑う。父上は私たちを見てから、次の紙を持ち上げた。
「問題はドルメーユだ」
「やはり」
母上が言う。
「ええ。先ほどの家令のあと、さらに“どうか当主夫妻の署名入り謝罪だけは再考いただけないか”との別便が来た」
「必死ですね」
兄上が鼻で笑う。
「だからこそ、そこが効く」
父上が言う。
「署名したくないのは、自分たちの非を文書に残したくないからだ」
「当たり前ですね」
私は答えた。
「残ると困りますもの」
「ええ。困らせます」
母上の声は、今日も実に穏やかだった。私はこの家のそういうところが好きだ。
誰も怒鳴らない。誰も大げさな復讐を叫ばない。ただ、相手が本当に嫌がる場所を、ちゃんと見つけて押す。
「では」
兄上が腕を組み直す。
「まだ押すわけですね」
「ええ」
父上が答える。
「もう少し」
その時、廊下の向こうで使用人たちの小さなざわめきがした。扉が叩かれ、執事がやや珍しく眉を動かした顔で入ってくる。
「旦那様」
「何だ」
「ドルメーユ侯爵家より、カルダン様ご本人が」
「は?」
私はつい声を上げた。
「約束もなく?」
「はい。ぜひパール様へ、ひと言お詫びをと」
部屋の空気が、一瞬で冷えた。
兄上の目が笑わなくなる。母上の扇が、ぴたりと止まる。父上は机に指を置いたまま動かない。
姉上だけが、少しだけ驚いたように瞬きをした。
「私に?」
「そう申しております」
私はしばらく言葉を失った。穏便に、署名は困る、文書は再考を、と来て、最後に本人が出てくる。
向こうはたぶん、ここで何とかなると思っているのだろう。姉上に直接言えば。少ししおらしい顔をすれば。あるいは昔の情でも引けば。
だとしたら見通しが甘い。甘すぎる。
「父上」
私は低く言った。
「追い返してよろしいのでは」
「そうだな」
兄上が即答する。
「今すぐ」
「待ちなさい」
母上が言う。全員の視線が母上へ向く。
母上はほんの少し考えるように目を細め、それから姉上を見た。
「パール」
「はい」
「あなたは会いたいですか」
姉上は黙った。静かな部屋の中で、その沈黙だけが少し長く感じられる。
窓の外では午後の光が庭木の影を伸ばしていた。平和な屋敷に、どうしてこうも馬鹿が自分から飛び込んでくるのだろう。
姉上はやがて、まっすぐ顔を上げた。
「……会います」
私は息を呑む。でも姉上の顔は、思っていたよりずっと落ち着いていた。
「ひとりでは会いません」
姉上は続ける。
「父上と母上と、アンバーがいてくださるなら」
「もちろんだ」
兄上が先に言う。
「俺もいる」
「サフィール」
母上が言う。
「ええ、私もいます」
兄上が完全に外されずに済んだので、少しだけ空気が和らぐ。父上は執事へ顔を向けた。
「通せ」
「かしこまりました」
扉が閉まる。私はそこで、無意識に姉上の手を握っていたことに気づいた。
姉上の指先は冷たくない。少し力は入っているけれど、震えてもいない。
「姉上」
「何?」
「無理なら、やっぱりやめても」
「いいえ」
姉上は小さく首を振った。
「もう一度、顔を見ておきたいの」
「どうして」
「たぶん」
姉上は少しだけ目を細める。
「今なら、ちゃんと見切れる気がするから」
その言葉を聞いた瞬間、私は胸の奥がすっとした。ああ、と思う。
次は、向こうが来る。しかも自分から。だったら、もう逃げ場はない。
カルダンが何を言うつもりかは知らない。でもこの部屋で、それが姉上に通じると思うなら、ずいぶん見誤っている。
ベルジャン家の狩り場に、自分から入ってきたのは向こうなのだから。




