18 噂は、本人のいないところで育つものらしい
その翌日、私は珍しく朝からきちんと髪を結い上げられていた。
といっても夜会へ出るわけではない。母上に連れられて、親しい家だけが集まる小さな昼の茶会へ顔を出すことになったのだ。
もともとは春先の顔つなぎ程度の集まりらしいけれど、こういう場ほど人はよく見ているし、よく喋る。
そして今のベルジャン家には、少し見せておいたほうがいいこともあった。
「緊張していますか」
鏡越しに母上が言う。
「少し」
「結構です」
「またですか」
「今日はとくに結構です。余計な愛想は不要ですもの」
私は肩をすくめた。
王都屋敷の私室は朝の光で明るい。窓辺のレースが風にわずかに揺れていて、白い化粧台の上に置いた小さな硝子瓶がきらきらしていた。
こういう穏やかな朝に、私はたまに「世の中には何の問題もありません」みたいな顔をしたくなる。実際には問題が山ほどあるけれど。
「姉上は?」
「今日は見送るそうです」
「そう」
「でも顔色はずいぶんよろしいわ」
「ええ」
それは本当だった。姉上はまだ完全には戻っていない。
けれど、あの“穏便に”だの“行き違い”だのを聞いてからのほうが、むしろ目が澄んできた気がする。腹が立つというのは、案外大事なことなのかもしれない。
◇
母上とともに出向いたのは、古くからうちと付き合いのある伯爵夫人の屋敷だった。
気取った大広間ではなく、庭に面した明るいサロンを使う、いかにも“親しい方だけで”という会だ。磨かれた床、春色の花、金縁の薄い茶器。どれもほどよく上品で、いかにも母上が好みそうな空気だった。
そして、こういう場には必ずいる。人の顔色を見ながら、絶妙に“何も知らないふう”で探りを入れる人が。
「まあ、アンバーさん」
最初に声をかけてきたのは、伯爵夫人の従妹だという年上のご婦人だった。
「お顔を見られてよかったわ。ご実家にお戻りのパールさんも、お加減はいかが?」
ほら来た。私は笑顔を作った。凍らない程度に、でも柔らかすぎない程度に。
「ありがとうございます。姉は少しずつ元気を取り戻しておりますわ」
「それは何より」
「ええ。家族みなで静かに過ごしておりますの」
静かに、を少しだけ強調する。ご婦人はにこにこと頷いたけれど、耳はたぶんよく動いている。
ここでこちらが取り乱したり、逆に何でもありませんと笑い飛ばしたりすれば、それがそのまま広がる。だから私は“静かにしているが、何もなかったことにはしていない”くらいの顔をしておくのがちょうどいい。
母上はその少し向こうで、別の侯爵夫人と穏やかに話していた。穏やかに見えるだけで、たぶん一番いろいろ見ている。
席につき、茶が注がれ、焼き菓子が運ばれる。
春の茶会らしく話題は軽い。どの仕立て屋がよかっただの、今年の薔薇は開くのが少し早いだの、誰それの甥が軍学校へ入っただの。けれど、その薄い会話の下に、別の流れがちゃんとあるのがわかる。
ラヴェルディ家の長男が、急に王都で見なくなった。ドルメーユ家が、離縁のあと少々ばたついているらしい。ベルジャン家が、最近は家族でよく動いている。
誰も露骨には言わない。でも、言わないからこそ伝わる。
「そういえば」
別のご婦人が、砂糖ばさみを置きながら言った。
「ラヴェルディ家のご長男、しばらく領地へ下がられるとか」
「まあ」
誰かが目を丸くする。
「お身体でも?」
「いいえ、事業の見聞を広めるためですって」
「それはまた急なお話ね」
私はカップの縁に口をつけたまま、少しだけ目を伏せた。見聞を広めるため。便利な言い換えである。
母上は一度もこちらを見なかった。でも、その横顔の口元がほんのわずかに和らいだ気がした。たぶん、同じことを思っている。
そしてそのご婦人は、さらに何気なく続けた。
「次男のほうがお好きな分野があると聞いていたけれど、やはり長男が一度見ておくのは大切よね」
「ええ、家のためには」
「そうですわね」
「家のため」
私はうっかり、カップを持つ手に力を入れた。あの手紙を思い出したからだろう。
家のため、家のためと便利に言う人ほど、家の顔に泥を塗る。ほんとうに家のことを考える人は、もっと静かに働くものだ。
茶会の終わり頃、伯爵夫人がそっと母上へ近づいた。私は少し離れていたけれど、彼女の声の調子で“ただの世間話ではない”とわかった。
母上もそれに気づいたらしく、私に軽く目で合図をする。
帰りの馬車に乗り込んでから、母上がようやく口を開いた。
「今の、聞こえていましたか」
「少しだけ」
「では、残りを教えてさしあげるわ」
馬車は石畳を軽く揺れながら進む。窓の外では王都の昼が明るく流れていく。
果物屋の軒先、仕立て屋の看板、通りを横切る子供たち。平和そうで、羨ましい。
「ラヴェルディ侯爵は、長男を王都から外すだけでは足りないと考えたようです」
「足りない?」
「ええ。事業の一部からも手を引かせるとか」
「……早いですね」
「次男が“兄上が関わるなら私は関わりません”と」
「はっきり」
「学者肌の方は、案外そういうものです」
私は少しだけ目を丸くした。
次男が二十二、三男が十八。あちらの兄弟事情はざっくり聞いていたけれど、そこまで即座に線を引くとは思っていなかった。
「では、三男が?」
「“兄上が携わらないなら自分が学ぶ”と言ったそうよ」
「まあ」
「向こうのご両親としては、痛いけれど助かったのでしょうね」
「そうでしょうね」
長男に一縷の望みをかけていたのだとしても、その望みごと本人が断ち切ったのだから仕方がない。
私は窓の外を見た。
ラヴェルディ家の屋敷がどんな顔をしているのか知らない。でも今ごろ、中はなかなか冷えているだろう。
父親に怒られただけで済む話ではなくなってきた。長男としての立場そのものが、少しずつ痩せていく。
でも、それだけではまだ足りない気がした。
「母上」
「何かしら」
「コレリオ様、そこまでされてもまだ自分を“ちょっと失敗しただけの長男”くらいに思っていそうです」
「ええ、思っているでしょうね」
「嫌ですね」
「嫌ですわね」
母上が平然と同意するので、少しだけ可笑しくなった。
「それともう一つ」
母上が続ける。
「ドルメーユ家のほうも、少しずつ広がっているようです」
「どこまで?」
「“愛人が正妻の品を身につけていたらしい”くらいまでは」
「広がるの、早くありません?」
「早いですね」
「誰が喋ったのでしょう」
「誰でしょうね」
母上は涼しい顔だった。
「屋敷というのは不思議なもので、主人が隠したいことほど、使用人たちはよく知っておりますの」
なるほど。私は昨日のドルメーユ家の応接間を思い出した。
アーシャが真珠の留め具をつけて現れ、カルダンがあからさまに狼狽え、家令が汗をかいていたあの場。あれで何も漏れないと思うほうが無理だ。
「では、社交でも」
「ええ。まだ露骨ではありませんが、“パールさんはずいぶん我慢なさっていたのね”くらいの言い方は増えるでしょう」
「なるほど」
「そうなると困るのは、ドルメーユ家です」
「古い家ですものね」
「ええ。古い家ほど、女の扱いを間違えたと見られるのを嫌がります」
私はそこで、やっと少し息が軽くなった。
もちろん噂だけで満足するつもりはない。けれど、向こうが“穏便に”で押し込めようとした話が、少しずつ外へ滲み出しているのは悪くない。
姉上だけが黙って傷を飲み込む形ではなくなるからだ。




