17 「穏便に」は、追い詰められた側が言う言葉だ
家令バスティアンは明らかに困った顔になった。でも、その困り方にはどこか“想定外”が混ざっている。
たぶんこの人も、姉上のことを“儚げで、柔らかくて、押し切られる側”だと思っていたのだ。思っていたのなら、見る目がない。
「穏便に、とは」
父上が低く言う。
「つまり、こちらが娘の名誉を傷つけられた件を公にせず、そちらの面子を保てという意味か」
「そのような、露骨な」
「露骨に言い換えただけだ」
父上の声は変わらない。
「違うと言うなら、違う説明をしなさい」
「……」
言えない。言えるわけがない。
家令の額に、うっすら汗がにじんだ。
兄上がそこで腕を組んだまま言う。
「そもそも、穏便にしたかったなら最初から姉上を雑に扱わなければよかっただけだ」
「若様」
「違うか?」
違わない。だから家令は黙るしかない。
私はその様子を見ながら、机の上の小冠を見た。繊細で、きれいで、姉上の雰囲気によく合う品だ。
そんなものを、あちらは返し忘れたのではない。後回しにしたのだ。
大したことではないと思ったか、返さなくても済むと思ったか、そのどちらかだろう。そういう軽さが、私は大嫌いだ。
母上が静かに箱を閉じた。
「ドルメーユ家令」
「はい」
「お伝えください」
「……何を、でしょう」
「品を返せば済むほど、こちらは軽く扱われておりませんの」
声音は穏やか。でも、目が笑っていない。
「補償は当然です。返還も当然。ですが、それで終わりではありません」
「侯爵夫人」
「パールの名誉に関する件について、こちらは改めて正式な形を求めます」
「正式な形、と申されますと」
「文書での謝罪」
母上が言う。
「当主夫妻の署名入りで」
「……!」
家令が初めて、はっきり動揺した。たぶん、そこまでは予想していなかったのだろう。
品と金で収める話ではなく、“どういう扱いをしたか認めさせる”段に入るとは思っていなかったらしい。
「それは、さすがに」
「さすがに?」
私はつい言った。
「姉上をあのように扱っておいて?」
「アンバー」
母上が軽く見る。
「はい。少しだけゆっくりですね」
「ええ。今日はそのくらいで結構です」
少し褒められた。
家令は口元を引き締め、どうにか平静を取り戻そうとしていた。
「侯爵ご夫妻に、そのままお伝えいたします」
「ええ」
父上が頷く。
「それともう一つ」
「はい」
「カルダン殿にも伝えなさい」
父上の声が、一段低くなる。
「元妻の持ち物をどう扱ったか、愛人に何を与えたか、すでにこちらは把握している、と」
「……承知いたしました」
「そして」
父上は続ける。
「今後、パールへの私的な接触は一切許さない」
「私的な」
「手紙も、使者も、偶然を装った訪問も同じだ」
「……はい」
私はそこで、ふと思い出した。
「父上」
「何だ」
「昨日のラヴェルディ家への文面、そっくりですね」
「そうだな」
父上は平然と言う。
「馬鹿への対応には、ある程度の共通項がある」
兄上が吹き出しかけ、母上が扇で口元を隠した。姉上まで少しだけ肩を震わせている。
家令だけが、さすがについていけていなかった。でも構わない。この場で大事なのは、こちらがもう何も曖昧にしないと見せることだ。
◇
家令が帰ったあと、部屋には少し変な静けさが残った。
張りつめていた糸が切れたというより、向こうが持ってきた“穏便に”という言葉の薄さが、まだ机の上にひらひらしている感じだった。
兄上が真っ先に言う。
「穏便に、だって」
「ええ」
母上が答える。
「ずいぶんと都合のよいお言葉でしたね」
「家令は、最後にはほとんど泣きそうでしたね」
私は言った。
「泣くなら雇い主のほうでしょう」
兄上が言う。
「遅かれ早かれな」
「サフィール」
父上が見た。
「はい、父上。まだ殴り込みには行きません」
「行くな」
「はい」
姉上がそのやり取りを聞いて、ふっと笑った。少し疲れた顔ではあるけれど、今の笑いは昨日より強い。ちゃんと、こちら側の笑いだ。
「姉上」
私は顔を覗き込む。
「大丈夫?」
「ええ」
「本当に?」
「本当に」
姉上は小さく頷いた。
「さっき、自分でも驚いたわ。あの人たちに“穏便に”なんて言われて、腹が立ったの」
「当然です」
「ええ。やっと、そう思えたのかもしれない」
私はそれを聞いて、少しだけ胸が熱くなった。
姉上はずっと優しかった。優しすぎた。
だから向こうは、その優しさを“黙って受け入れること”と勘違いしたのだろう。
でも違う。違うのだと、姉上自身が思い始めた。
それだけで、今日の“穏便に”は無駄ではなかった気がする。
「母上」
私は尋ねる。
「当主夫妻の署名入り謝罪なんて、向こうは嫌がりますよね」
「もちろん」
「では、どうします?」
「嫌がらせておけばよろしいのです」
母上が涼しい顔で言う。
「最初から素直に応じるとは思っていませんもの」
「母上」
「何かしら」
「好きです」
「知っています」
兄上が呆れたように息をつく。
「お前、そればっかりだな」
「だって本当ですもの」
「知ってる、で返す母上もどうかしてる」
「家族ですから」
母上がまた平然と言う。父上は小冠を箱へ戻した。
「今日はここまでだ」
「はい、父上」
「パールは休みなさい」
「はい」
「アンバー」
「はい」
「ついていてやれ」
「もちろん」
部屋を出る時、私は机の上をもう一度見た。
戻ってきた小冠は、まだ少し曇っていた。でも、こちらの見え方まで曇らせるものではない。
ドルメーユ家は“穏便に”を持ってきた。それはつまり、追い詰められ始めたということだ。
追い詰められた側は、たいてい最初にそう言う。
でもこちらは、その言葉で手を緩めるつもりなど、少しもなかった。




