16 姉上はただひどく静かに切る
その日の午後、私は姉上の部屋で刺繍枠を眺めていた。
眺めていただけで、別に針は進んでいない。私は昔から細かい手仕事があまり得意ではないし、今はなおさら落ち着かなかった。
窓辺の長椅子に座った姉上のほうは、久しぶりに本を開いている。頁をめくる速度は遅いけれど、昨夜までの“字を追う気にもなれない”状態よりはずっといい。
それだけで、部屋の空気が少し柔らかかった。
「アンバー」
姉上が本から目を上げる。
「さっきから、糸より窓の外を見ているわ」
「ええ」
「落ち着かないのね」
「はい」
素直に答えると、姉上が少し笑った。
「わかるわ」
「姉上も?」
「ええ。こういう時って、何かが届く前の空気がするもの」
「それです」
私は刺繍枠を置いた。
「うちが文書を送ったなら、向こうも何か返してくる気がして」
「返してくるでしょうね」
「穏便に済ませたい顔で」
「それもありそう」
姉上はそう言って、また頁へ目を落とした。でも、その指先は本の端を軽く押さえたまま少しだけ止まっている。
姉上だって気になるのだ。気にならないはずがない。
小冠はまだ戻っていないし、帯留めも片方足りない。物が足りないだけではない。その足りなさの向こうに、“どこまで軽く見られていたか”が透けて見えるのだから。
その時、廊下の向こうで足音がした。速すぎず、でも迷いのない足音。使用人のものだ。
次の瞬間、扉が叩かれる。
「お嬢様方、失礼いたします」
ミラの声だった。
「旦那様が小応接間へと。ドルメーユ侯爵家より使者が参っております」
やっぱり、と思った。姉上と顔を見合わせる。姉上は本を閉じ、少しだけ息を吐いた。
「行くわ」
私は立ち上がる。
「姉上は」
「行きます」
返事は思ったよりはっきりしていた。
「もう、見ないふりはしたくないもの」
私は何も言わず、ただ頷いた。
◇
小応接間には、もう父上と母上、それに兄上が揃っていた。
使者は四十代くらいの男で、ドルメーユ家の家令だろう。きちんとした服装をしているし、一礼の角度にも無駄がない。
ただ、顔色がよくなかった。汗をかいているわけではないのに、妙に乾いた感じがする。
机の脇には、また一つ箱が置かれていた。
「あら」
私は席につくなり言った。
「まだ何かございましたのね」
「そのようだ」
父上が短く言う。
使者は私と姉上が入ってきた瞬間、ほんの少し目を伏せた。姉上の姿が効いたのだろう。
追い出したはずの正妻が、こうして実家で静かに座っている。その事実だけで、向こうにはたぶん少し都合が悪い。
「ドルメーユ侯爵家家令、バスティアンと申します」
男は改めて名乗った。
「本日は、先ほどお送りいただいた文書につき、侯爵家を代表してお詫びとお願いに」
「お願い」
母上が穏やかに繰り返す。
「何かしら」
家令バスティアンは、一瞬だけ言葉を選んだ。
「まず、不足していた品がさらに見つかりましたので、お持ちいたしました」
「見つかった」
兄上が言う。
「都合よく?」
「若様、そのような」
「サフィール」
母上がたしなめる。
「はい、母上。続けてください」
兄上は黙ったけれど、全然穏やかな顔ではない。バスティアンは箱へ目をやった。
「加えて、先日よりの行き違いにつきましては、当家としても深く遺憾に」
「“行き違い”」
私はつい口を挟む。
「まだその言葉をお使いになるのですね」
「アンバー」
母上が軽く制する。
「はい」
でも母上の声は、いつもの“黙りなさい”ではなかった。少しくらいは刺してよい、という響きである。
父上が言った。
「開けよう」
「はい、旦那様」
箱が開けられる。中に入っていたのは、夜会用の小冠と、帯留めの片方だった。
私は思わず目を細めた。
小冠はたしかに姉上のものだ。細い銀の台に淡い石が散らしてある、楚々とした品で、姉上によく似合った。けれど今は、その石の一つが少し曇っているように見える。
そして帯留めは、片方だけ。対になってこそ意味があるのに、その片方だけが戻ってきても、あまりにも遅い。
「小冠が」
姉上がぽつりと呟く。
「ええ、姉上」
「返ってきたわね」
「そうですね」
「でも、遅いわ」
「ええ」
その“遅い”は、ただ時間の話ではなかった。家令もそれを理解したのだろう。目元がわずかに引きつる。
母上が小冠を手に取り、光へかざした。
「曇っていますわね」
「磨けば」
家令が言いかける。
「磨けば?」
母上が見た。
「元に戻るとでも?」
「……失礼いたしました」
謝罪の言葉が軽い。けれど、それが向こうの限界なのかもしれない。
古い家の使者らしく、表面だけは崩さない。でも崩さないだけで、中身はもうだいぶ苦しいのだろう。
父上が文書を指先で整えながら訊く。
「お願いとは何だ」
「はい」
家令は背を伸ばした。
「不足品の返還と補償につきましては、当家も誠意をもって対応する所存にございます」
「ええ」
「ですので、パール様の名誉に関する件につきましては、どうか家同士で穏便に」
「穏便に」
今度は母上ではなく、姉上がその言葉を繰り返した。部屋の空気が、ほんの少し変わる。
姉上はゆっくりと顔を上げた。声は静かだった。でも、その静かさの質が昨日までと違う。
「ドルメーユ家では、私を追い出した時にも“穏便に”とおっしゃったのかしら」
「パール様、それは」
「私の席に愛人が座り、私の宝石を使い、私の持ち物を勝手に改めても、家の中のことだから穏便に、と?」
「……」
「離縁そのものは、もう覆りません。でも、穏便に、という言葉で私の扱われ方まで薄められると思わないでくださいませ」
私は隣で、そっと息を呑んだ。
姉上は怒鳴らない。泣きもしない。ただ、ひどく静かに全ての関わりを心から切り離していた。




