15 返せば済むほど甘くはない
「一件落着、だそうですね」
私が言うと、母上が書状を机へ置いた。
「ええ。厚かましいにもほどがあります」
「ここまで戻したなら、済むと思ったのか」
兄上が言う。
「思ったのでしょうね」
母上が答える。
「古い家ほど、“不足分を返せば体裁は整う”と考えがちですもの」
「体裁だけならな」
父上が低く言う。
「だが今回は、体裁の前に中身が露見した」
部屋が少し静かになった。窓から入る光が、箱の縁を白く照らしている。
リネンの山が柔らかそうに見えるのが、かえって腹立たしい。柔らかい布ほど、人の手の雑さが残る気がするのだ。
姉上がふいに口を開いた。
「母上、父上」
「何だ、パール」
父上が見る。
「……私、昨日までは、物が戻ってきさえすれば少しは終わる気がしていたの」
「ええ」
「でも、こうして見ると違いますね」
「違います」
母上がはっきり答えた。
「物は物です。返させるのは当然。でも、それであなたがどう扱われたかまで消えるわけではありません」
「はい」
「だから、ここで“では済みましたね”とはしませんよ」
「……ありがとうございます」
姉上はそう言って、真珠の留め具を箱へ戻した。指先は少しだけ震えていたけれど、目は昨日よりずっとまっすぐだった。
「小冠と帯留めは、まだ向こうですか」
兄上が訊く。
「そのようだ」
父上が答える。
「なら返還請求に加える。損傷分も含め、正式な補償を求める」
「それだけでは軽いですね」
私はつい言った。兄上が即座にこちらを見る。
「そうだな」
「サフィール」
母上がたしなめる。
「はい、母上。ですが軽いです」
「ええ、私もそう思います」
母上は一覧の端を整えた。
「ですから、返還請求と補償請求はあくまで入り口です」
「入り口」
私は繰り返す。
「ええ。向こうは今、“物を戻したのだから話を収めたい”と思っている。ならば、その認識がどれほど甘いかを教えて差し上げる必要があります」
その時、控えていた執事がまた現れた。
「旦那様、ラヴェルディ侯爵家より使者が」
「今度は何だ」
兄上が先に言う。執事は少しだけ困った顔をした。
「御当主直筆の書状にございます。昨夜の書状の件につき、ただちにお詫び申し上げたいと」
「あら」
母上が目を細める。
「向こうも慌ただしいこと」
「並行して崩れてますね」
私はぽつりと言った。兄上が鼻で笑う。
「わかりやすくて助かるな」
「助かりますわね」
母上が言う。
「母上、その言い方、もう癖になってません?」
「便利ですもの」
父上は執事から書状を受け取り、封を切った。皆が待つなか、短く目を通す。やがて父上は紙を畳み、机に置いた。
「ラヴェルディ侯爵は、息子の軽率さを詫びている」
「軽率」
兄上が言う。
「軽いな」
「加えて、息子は当面、王都での表立った場から遠ざけるそうだ」
「まあ」
私は少しだけ瞬いた。
「早いですね」
「早くせざるを得まい」
父上の声音は冷静だ。
「次男と三男の件もある。あちらとしては、これ以上長男に余計なことをさせたくないのだろう」
「でしょうね」
母上が言う。
「ベルジャン家との縁を失っただけでなく、王都での評判まで傷めては家に差し障りますもの」
私はそれを聞きながら、ラヴェルディ侯爵の顔を思い浮かべようとした。
どうやらら少なくとも息子よりは物が見えているらしい。見えているからこそ、今ごろ頭を抱えているのだろう。
でもそれはそれ、これはこれだ。
ラヴェルディ側の馬鹿が一人、ようやく表舞台から引っ込まされそうになっている。
ドルメーユ側の馬鹿は、まだ品を返せば終わると思っている。
並行して進んでいる。たしかにそんな感じがした。
「父上」
私は訊いた。
「ラヴェルディには、これで少し待っていただくとして」
「そうだな」
「ドルメーユには?」
「今日中に次の文書を送る」
父上が言う。
「返還未了の品、不当な使用による損傷、そしてパールの名誉に関する件。三つを分けて記す」
「よろしいかと」
母上が頷く。
「一件落着どころか、ようやく一件目が始まったところだとわからせましょう」
「母上」
私はちょっとだけ身を乗り出した。
「一件目なのですか」
「ええ。品は品、人は人、家は家ですもの」
「好きです」
「知っています」
兄上がそこでふっと息を漏らした。
「毎回言うな、お前は」
「だって好きですし」
「知ってる、で返す母上も母上だ」
「家族ですから」
母上が平然と言う。その一言で、姉上まで笑った。
笑うとまだ少し儚げに見えるのが姉上らしい。でも、その笑いの奥に、今朝はちゃんと別の色があった。見切り。怒り。たぶんその両方。
私はそれを横目で見て、ほんの少しだけ安心する。
返された荷物は、やっぱり軽かった。でも軽かったからこそ、向こうの浅さもよく見えた。
小冠はまだ戻っていない。帯留めも片方足りない。
外套は直され、宝石には傷がつき、書物には染みがついていた。
けれど、だからこそもう迷いはない。
ドルメーユ侯爵家は、返せば済むと思っている。ラヴェルディ侯爵家は、長男を引っ込めれば済むと思いたい。どちらも、まだ足りない。
父上が立ち上がる。
「マルタ、一覧を清書して執務室へ」
「はい、旦那様」
「アンバー」
「はい」
「パールについていなさい。今日はここまででよい」
「はい」
「サフィール」
「わかっています。机は殴りません」
「殴るな」
「はい」
兄上はそう言いながら、やっぱりかなり物騒な顔をしていた。
でも私は、その横顔を見て少しだけ可笑しくなる。この家はほんとうに、よくできている。
父上が線を引き、母上が勝ち筋を整え、兄上が怒りをわかりやすく担当し、姉上がようやく自分の痛みを痛みとして見始めている。
その輪の中に、私もちゃんといる。
「姉上」
私は立ち上がって言った。
「少し休みましょうか」
「ええ」
「ただし、その前に」
「何?」
「小冠は返してもらいます」
私ははっきり言う。
「絶対に」
姉上は一瞬目を丸くして、それから笑った。
「ええ、お願い」
「はい」
窓の外では、春の陽がもうすっかり高くなっていた。
返された品々は机の上で静かに光っている。戻ったから終わりではない。
戻ったからこそ、これからきちんと数え直せるのだ。物も、扱いも、侮りも。
ベルジャン家は、そのどれも曖昧にはしない。




