11 反撃はこれからきちんと
私はそこで、アーシャの手元に気づいた。細い指に嵌まっている、淡い色石の指輪。
見覚えがある。姉上がまだ婚約中、春の庭で本を読んでいた時にしていたものだ。
「母上」
「何かしら」
「指輪もです」
全員の視線がアーシャの手へ落ちた。アーシャは慌てて手を隠そうとしたけれど、遅い。
「それも、カルダン様が?」
私が訊くと、アーシャは唇を噛んだ。
「……そうよ」
「まあ」
私は目を細める。
「人の婚家と持ち物を手に入れても、まだ足りなかったのですね」
アーシャの顔が歪んだ。
「何よ」
初めて、剥き出しの声が出る。
「だってあの人は、何をしても黙っていたじゃない」
「アーシャ!」
「そうでしょう!?」
カルダン様が止めるより早く、アーシャは声を張った。
「いつも静かで、綺麗で、文句も言わないで……そんな顔をしているから、周りも皆あの人ばかり庇うのよ!」
「庇われる理由があるからでしょう」
私は言い返した。
「少なくとも、他人の宝石を身につけて開き直る人よりは」
「あなたに何がわかるのよ!」
「ええ、わかりませんわ。姉の居間に勝手に入り、姉の席に座り、姉のものを使う趣味は私にはありませんもの」
アーシャが息を荒くする。泣きそうなのか、怒っているのか、その両方か。たぶん全部だ。
でも母上は、そういう荒れ方には少しも動じなかった。
「なるほど」
とだけ言って立ち上がる。
「状況はよくわかりました」
「ベルジャン侯爵夫人」
ドルメーユ侯爵夫人が立つ。
「どうなさるおつもりです」
「どうもいたしませんわ」
母上は優雅に手袋を整えた。
「まずは、不足品の一覧を正式に送ります。現物の返還を求めるとともに、返還不能の品については相応の補償を」
「そんな」
カルダン様が顔をしかめる。
「大げさでは」
「大げさ?」
私はもう笑うしかなかった。
「姉上の宝石を愛人に与えておいて?」
母上は私を制さず、そのまま続けた。
「加えて、パールの名誉を損ねた件についても、こちらは改めて文書でお話しすることになるでしょう」
「名誉?」
ドルメーユ侯爵夫人が低く言う。
「離縁は家同士で合意したこと」
「だからといって、雑に扱ってよい理由にはなりません」
母上の声は静かだった。
「ドルメーユ侯爵夫人。あなた方はたぶん、あの子が泣き寝入りすると思っていたのでしょう。そうして、荷物を返し、話を終えたことにしてしまうおつもりだった」
「……」
「残念でしたわね。あの子には実家がございますの」
その言葉を聞いた瞬間、私は胸の奥が熱くなった。ああ、と思う。こういう時の母上は、本当に美しい。
アーシャはもう椅子に座り込むようにして黙っていた。
カルダン様は完全に言葉を失い、ドルメーユ侯爵夫人だけがかろうじて体裁を保っている。
でも、その体裁も少しずつ剥がれていた。
古い家の重み。名家の面子。それらが、母上のごく丁寧な言葉で、一枚ずつはがされていく。
「アンバー」
母上が振り向く。
「もう十分です。帰りましょう」
「はい」
「真珠の留め具と指輪は?」
思わず訊くと、母上はほんの少しだけ唇を上げた。
「それも文書で返していただきます」
「今ここで返させないのですね」
「ええ。証拠として、今は相手の手元にあることが大事ですもの」
私は心の中で、もう一度拍手を送った。さすがだ。
その場で取り返してすっきりするより、後から逃げられない形にしたほうが強い。
◇
玄関へ向かう途中、廊下の窓から庭が見えた。広い芝生と、まだ芽吹いたばかりの木々。土の匂いがしそうな景色だった。
こういう庭を見れば、この家が本来どれだけ豊かな土地を持っているかはわかる。けれど、その豊かさを受け継ぐ人間がこの有様では、いずれ土台まで傷むのではないかと思えてならない。
馬車へ乗り込むと、私はやっと息を吐いた。
「母上」
「何かしら」
「今日の私は、少しだけゆっくり言えた気がします」
「ええ、合格です」
「嬉しいです」
「ただし最後の一言は少々刺しすぎました」
「どれでしょう」
「“姉の婚家と持ち物を手に入れても、まだ足りなかったのですね”」
「やっぱり」
「でも、私も同じことを思っておりましたので、大目に見ます」
私は吹き出した。
馬車が動き出す。窓の外で、ドルメーユ侯爵家の門がゆっくり遠ざかる。
真珠の留め具はまだ向こうにある。指輪も、小冠も、青い耳飾りも、たぶんまだ。
けれど、もういい。
今日見た。今日聞いた。今日、相手の口からこぼれた。
それだけで十分に、次へ進める。
「アーシャ、思ったより浅かったわ」
私はぽつりと言った。
「ええ」
母上が頷く。
「浅い人ほど、よそのものを奪えば自分が高くなれると勘違いするのです」
「でも結局、自分で崩しましたね」
「その通り。助かりますわ」
助かる、で済ませるあたりがやっぱり怖い。
私は膝の上で手袋を整えながら、春の光のなかを流れていく王都の通りを見た。
姉上のものは、まだ全部戻っていない。姉上の傷だって、こんな一日で消えるわけではない。
でも少なくとも、今日ではっきりした。ドルメーユ侯爵家は、やはり押し切れると思っていた。
アーシャは奪ったものを自分の勝利の印のように身につけていた。カルダン様はそれを止めず、止められず、今になって“大げさだ”と言った。
だったら、もう容赦はいらない。ベルジャン侯爵家が次に返すのは、確認ではない。
きちんとした形の、反撃だ。




