10 古い家の応接間に盗まれた真珠は似合わない
「ベルジャン侯爵夫人……」
「ごきげんよう、カルダン様」
「本日は、いかなる」
「パールの荷物の確認に参りました」
母上が端的に言う。
カルダン様の喉がわずかに動く。ああ、この人はたぶん、返ってきた荷物がきちんと揃っていないことすら、細かくは把握していないのだろう。
妻の持ち物がどう扱われていたかも、愛人が何を使っていたかも、深く考えないままここまで来たに違いない。そういう軽さが、私は大嫌いだ。
「返書にもあった通り、行き違いがあるなら確認は」
「ええ、そのためにアーシャさんもお呼びいただければと」
母上が言うと、カルダン様は目に見えて固まった。
「アーシャを?」
「はい」
「なぜ」
「取り違えの可能性があるそうですので」
「誰がそのような」
「お母様がおっしゃいましたわ」
母上が上品に微笑む。
カルダン様は一瞬、自分の母を見た。ドルメーユ侯爵夫人は表情を崩さなかったけれど、目の奥は明らかに険しくなっていた。
その時また、扉の向こうで別の物音がした。こちらはもっと躊躇がない。衣擦れの音まで少し高い。
ノックもそこそこに扉が開き、若い女が入ってきた。
「お義母様、坊やが少しぐずって――」
そこで止まる。
止まるのも無理はない。部屋の中に、ベルジャン侯爵夫人とその娘が座っているのだから。
そして、私が最初に見たのはその顔ではなく、胸元だった。白い首筋の下、淡い桃色の昼のドレスの上に、小さな真珠の留め具が光っている。
細工は控えめだが、留め方に癖がある。母上の実家からパール姉上へ贈られたものだと、私は何度も見て知っていた。
姉上に似合った時には清楚でやわらかく見えたそれが、今この女の胸元では、妙にいやらしい光り方をしている。
母上が沈黙した。それは、よくない兆候だった。
「あなたが、アーシャさん?」
母上がやがて言う。
「は、はい」
「はじめまして。ベルジャン侯爵夫人マズルカです」
「……存じ上げております」
アーシャは明らかに動揺していた。
年は私より少し上だろうか。派手すぎるほどではないが、自己主張の強い顔立ちだ。姉上の儚さとは正反対で、目も口もよく動きそうな女だった。たぶん、勝っている間は生き生きと輝く類の人なのだろう。
でも今、その輝きはかなり曇っていた。母上の視線が、胸元の留め具へ向く。
「失礼ですが、その真珠の留め具」
「え」
「よろしければ、少し近くで拝見しても?」
アーシャの手がとっさに胸元をかばうように上がった。それだけで十分だった。
母上が穏やかに言う。
「どうやら、行き違いではなさそうですわね」
「こ、これは」
「母上のご実家から、姉へ贈られたものです」
私ははっきり言った。
「少なくとも、あなたのお持ち物ではありません」
アーシャの頬が赤くなったり青くなったりする。
「カルダン様が……」
やがて絞り出すように言う。
「くださったのです」
「なるほど」
母上が頷く。
「では、勝手に持ち出したのではなく、《《主人が妻の品を愛人へ与えた》》と」
カルダン様の顔が、一気に強張った。
「違う、私は」
「違わないでしょう」
私の口が先に動いた。
「姉上の品だと知らずに渡したのですか。そんなはずありませんもの」
カルダン様は私を見た。その目には苛立ちと困惑が混ざっている。怒鳴れない相手に対して、どう振る舞っていいかわからない男の顔だった。
「アンバー嬢、これは家の中のことで」
「ええ、家の中のことですわね」
私は笑った。
「姉上の宝石が愛人へ流れる程度には」
ドルメーユ侯爵夫人が、そこで初めて声を強めた。
「アンバー嬢」
「何でしょう」
「言葉に気をつけなさい」
「お気に障りました?」
「障りますとも」
「では、真珠の留め具が誰のものか先に気になさるべきでしたわね」
母上が私の袖を軽く押さえた。止めるのかと思ったら、そうではなかった。
「アンバー」
「はい、母上」
「とても結構ですが、少しだけゆっくりにしなさい」
「はい」
つまり、言うなではなく、速度の問題だった。
アーシャは、もうほとんど泣きそうな顔をしていた。けれど、私はあまり同情できなかった。
姉上の席に座り、姉上の茶器を使い、姉上の宝石を身につけていた女だ。今さら被害者の顔をされても困る。
母上は一覧を指先でなぞる。
「この留め具のほかにも、返ってきていない品がいくつかあります。青い石の耳飾り、葡萄色の外套、帯留め、指輪、夜会用の小冠」
「小冠まで?」
思わず私は呟いた。
「ええ、小冠まで」
母上が淡々と答える。
「ずいぶんと気前よくお渡しになったようで」
カルダン様が、そこでようやく母上へ向き直った。
「ベルジャン侯爵夫人。確かに配慮の足りない点はあったかもしれません。ですが、もう離縁は成立しております。今さら品のことで」
「今さら?」
母上がその言葉を繰り返した時、部屋の温度が一段下がった気がした。
「今さら、とおっしゃいました?」
「その、言葉の綾です」
「でしょうね。そうでなければ、私はあなたの正気を疑います」
カルダン様が息を呑む。母上は続けた。
「離縁したからこそ、きちんと返すべきものを返すのです。ましてそれが、元妻の私物であり、ベルジャン家の贈与品でもあるならなおさら」
「……」
「あなた方は、パールが不要になったから返しただけと? それで、後始末まで雑に済ませられるとお思いだったのかしら」
「……母上」
息子のすがるよう声に、ドルメーユ侯爵夫人が口を開く。
「言い方が過ぎます」
「過ぎません」
母上が言い切る。
「むしろ、かなり抑えております」




