第5話 あなたの、全部を
「あなたが、冬野結先生ですね」
雨の公園で、氷の令嬢はそう言った。断定だった。問いではなかった。
俺は、うまく息ができなかった。
「……人違いだ。俺は、ただの」
「第一話の投稿は、三年前の四月九日。タイトルは『泥の中の星』。書き出しは、『その男は、泥の中で目を覚ました』」
如月の声が、すらすらと流れ出す。
「五十二話で、主人公の名前の誤字を一度直されましたね。六月三日の更新分。『陽』の字が、一度だけ『腸』になっていた。翌日、こっそり修正されました」
背筋が、ぞくりとした。
そんなこと、俺しか知らないはずだ。いや――俺ですら、もう覚えていなかった。誰も読んでいないと思っていたから、修正の記録なんて、とっくに頭から消していた。
こっそり直した誤字。真夜中に、誰にも気づかれないと思って。それを、彼女は見ていた。見ていて、覚えていて、書き留めていた。
一度きりの、一文字の間違いを。
「百十七話で、更新が一日だけ遅れました。あなたが熱を出した日ですね。次の日、『昨日は上げられなくてすみません』と後書きに一行だけ。……わたくし、あの一行を、今でも諳んじられます」
一言ごとに、俺の心臓が跳ねた。
どれも、本当のことだった。誰も気づかない、誰も覚えていない、俺だけの些細な三年間。それが、彼女の口から、次々と正確にこぼれ落ちてくる。
如月は、抱えていた革表紙の手記を、傘の下でそっと開いた。濡らさないように、指先で慎重にページをめくる。
街灯の下、そこに書き込まれていたものを見て、俺は言葉を失った。
日付。時刻。話数。俺の全話が、几帳面な文字で、びっしりと記録されていた。何冊も、何冊も。感想欄に一件も書かれなかった言葉が、ぜんぶ、そのノートの中にあった。俺の三年が、そっくりそのまま、ここに保管されていた。
余白には、細かな書き込みがあった。この一文が好きだと。この場面で泣いたと。ここの伏線は、あの話へ繋がっているはずだと。俺が誰にも気づかれないと思って仕込んだものが、ひとつ残らず、拾い上げられていた。
一冊の重みが、そのまま、彼女が俺を読んできた時間の重みだった。
「これは……」
「あなたの、記録です」
如月は、宝物に触れるように、ページの上に手を置いた。
「全部の話。全部の更新時刻。直された誤字の、ひとつひとつまで。……わたくし、あなたの全部を、知っています」
氷の令嬢の目が、潤んでいた。
学校で見る、あの冷たい無表情はどこにもなかった。目の前にいるのは、自分の一番大切なものを、ようやく本人に見せられた――そんな、必死な顔をした一人の少女だった。
俺は、三年間ずっと、誰にも読まれていないと思っていた。
PV一桁。感想ゼロ。イタい、と笑われて当然の、独りよがりだと思っていた。声を、暗い井戸の底に向かって落とし続けているようなものだと。
でも、違った。
ここに、いた。井戸の底で、俺の声を、一言残らず拾い上げていた人が。
俺のたった一文字の誤字にまで気づいて、それを直したことを覚えていて、宝物みたいにノートに綴じていた人が、この世界に、一人、いた。
数字じゃない。書籍化でも、名声でもない。そんなものは、一度も手に入れたことがない。
ただ、俺の話を、こんなにも深く読んでくれた人がいた。その事実だけで、胸の奥が、焼けるように熱くなった。
泣きそうになって、俺は慌てて奥歯を噛んだ。ここで泣いたら、俺は本当に、自分の三年を認めてしまう。まだ、そんな勇気は、なかった。
「なんで、そこまで……」
俺は、ようやくそれだけを口にした。
如月は、手記をそっと閉じて、胸に抱いた。雨に濡れた睫毛を伏せ、少し迷うように、けれど確かな声で言った。
「それは……ここでは、お話しできません」
彼女は一歩、俺のほうへ近づいた。傘が、俺と彼女を、雨からひとつに囲う。
「わたくしの家へ、来ていただけますか」
行くべきじゃない。頭の隅では、そうわかっていた。氷の令嬢の家。財閥の令嬢の、住む世界。俺なんかが、足を踏み入れていい場所じゃない。
でも、断れなかった。
三年間、たった一人でも読んでくれた誰かに、ようやく会えた気がして。その相手が、こんなにも俺の話を大切にしてくれていて。振り払うには、俺の孤独は、あまりに長かった。
そして、震える声で、彼女は付け足した。
「……神様」
直した誤字ひと文字まで、誰も読まないと思っていた三年が、革表紙のノートにぜんぶ綴じられていた。「あなたの全部を、知っています」に胸を焼かれたら【泣ける】を。井戸の底で拾われていた蓮の続きを、ブクマで。




