第6話 黒塗りの車と、最上階
気づくと、公園の前に黒塗りの車が停まっていた。さっきまでは、なかったはずだった。
俺が住むアパートの家賃、何ヶ月分だろう。運転手が音もなく降りてきて、俺たちのために後部座席のドアを開ける。
「どうぞ、神様」
促されるより先に、運転手が大判のタオルを広げて差し出していた。乾いた、ほのかに温かいタオルだった。俺が濡れていることを、俺より先に、この車のほうが知っていたみたいに。
「お召し替えは、お部屋で」
如月にそう言い添えられ、俺はタオルを受け取って乗り込んだ。断る言葉を、うまく思いつけなかった。濡れたジャージが革のシートを汚さないか気にする間もなく、座面にはもう一枚、白いタオルが敷かれていた。俺の心配のぶんだけ、先回りされている。
車が着いたのは、街の真ん中にそびえるタワーマンションだった。見上げても、てっぺんが夜空に溶けて見えない。エントランスは、ホテルのロビーみたいだった。俺の濡れたスニーカーが、磨き上げられた大理石の床で、きゅっと情けない音を立てる。
エレベーターは、最上階のボタンを押した。数字が、ぐんぐん上がっていく。俺の日常が、地上にどんどん置き去りにされていく気がした。
扉が開いた先の部屋を見て、俺は立ち尽くした。
窓の一面が、夜景だった。足元に、街の光がぜんぶ広がっている。俺の六畳が、まるごと何十個も入りそうな広さ。生活の匂いが、まるでしない。
「まずは、お風呂を」
俺が濡れていることを、彼女は、俺の言い訳ごと封じるように言った。逆らう理由が、やっぱり見つからなかった。
通されたバスルームには、もう湯が張られていた。上がると、脱いだはずのジャージは、どこにも見当たらない。代わりに、着たことのない、それでいて俺の身体にあつらえたような部屋着が、畳んで置かれていた。
「濡れたお召し物は、洗って、乾かして、お返しします」
脱衣所の外から、如月の声がした。生乾きの惨めさも、着替えの一枚も、俺が口にするより先に、ぜんぶ、用意されている。
さっぱりした俺を、彼女はまっすぐ、次の一室へ案内した。
「こちらへ」
通されたのは、書斎だった。
背もたれの深い、いかにも高そうな椅子。大きな画面のパソコン。壁一面の棚には、俺が資料に使いそうな本ばかりが、まるで俺の頭の中を覗いたように揃えられていた。机の上には、真新しいノートと、万年筆。
執筆のための、完璧な部屋だった。
椅子に座れば、腰が沈み込んで、身体を優しく支えてくれるのがわかる。何時間書いても疲れないように設計された、プロが使うような椅子。俺が今まで使っていた、ぐらつくパイプ椅子とは、何もかもが違った。
しかも――このぜんぶが、俺のために、あつらえられている。
「あなたが、いつでも書けるように」
如月が、静かに言った。
「指が冷えると、筆が乗りませんよね。あなたの後書きに、書いてありました。冬は、かじかんで打ちにくいと」
如月は、机の引き出しから、指先の出た手袋を取り出した。
「この部屋は、空調がついています。夏でも、長く座っていれば、指先から冷えますから。冷えるようでしたら、これを」
俺の手のサイズに、ぴったり合わせてあるのが、見なくてもわかった。柔らかそうな、上等な生地。指先だけが出ているのは、キーボードを打つときに邪魔にならないためだ。
そんな一言、俺は、いつ書いただろう。もう自分でも忘れているような、後書きのたった一行。それを、彼女は覚えていて、こうして形にしていた。
湯呑みが、湯気を立てて置かれる。俺の利き手のすぐ先、座って手を伸ばすだけで持てる位置に、きっちり据えられていた。中身は、俺がいつも飲んでいる、安い番茶だった。なぜ、それまで。
俺は、ぞっとした。優しさに、ではない。その解像度の高さに、だ。
彼女は、俺という人間の、生活の隅々まで、知り尽くしていた。俺が気づいてもいない小さな癖や、後書きにぽろりとこぼした弱音の、その一つひとつまで。愛されている、というより――観察され尽くしている、という感覚に近かった。
「如月さん……こんなの」
俺は、後ずさった。
「こんなの、俺には過ぎたものだ」
本心だった。この椅子も、この部屋も、この気遣いも、ぜんぶ、俺の器には大きすぎた。PV一桁の男が座っていい場所じゃない。分不相応な優しさは、優しさのぶんだけ、こわい。
いつか、返せなくなる。こんなものを受け取ってしまったら、俺はもう、彼女に何も返せない。差が、大きすぎる。
いや。それより先に、なぜ彼女がここまでするのか、その理由が、まだ何ひとつわからないことが、一番こわかった。
如月は、俺の怯えを、静かに受け止めた。そして、少しだけ、泣きそうな顔で微笑んだ。
「過ぎたものなんかじゃありません」
如月の声が、少しだけ、強くなった。
「わたしにとって、あなたの書くものは、この世界の何よりも尊いんです。それを書く人が、あんな環境で、指をかじかませて、お腹を空かせているなんて。……そんなの、わたしが許せません」
彼女は、書斎の中央に立って、両手を広げるようにした。
「これが、当たり前なんです。神様には、ふさわしい場所が要る。……ここが、神様のお部屋です」
俺の背中を、冷たいものが伝った。
お部屋、と彼女は言った。まるで、もう俺がここで暮らすことが、決まっているかのように。
「……帰らせてくれ」
俺は、ようやくそれだけを、絞り出した。
指の出た手袋、利き手に向けた湯呑みの角度、いつもの安い番茶——愛されているというより、観察され尽くしている。その尊さと解像度の高さに「ぞっ」としたら【にこにこ】と【びっくり】を。逃げ切れるのか、続きはブクマで。




