第4話 氷の令嬢が、俺を見ている
休みの日の、夕方だった。
あの夜から、俺はうまく部屋にいられなくなっていた。六畳の壁が、日ごとに近くなる。イタい、という声が、天井のしみに貼りついて、剥がれてくれない。だから休みの日は、意味もなく外を歩くようになった。
梅雨の空は、その日もずっと灰色で、夕方から、ぽつぽつと雨が落ちてきた。傘なんて、持っていなかった。
いつも考えごとをしにいく、近所の小さな公園。誰もいないベンチに座って、俺はスマホを取り出した。指が、勝手に管理画面を開く。もう三年、毎晩くり返してきた仕草だった。ゆうべの話のPVは――やっぱり、一。あの零時二分の一だけが、今日もそこに灯っていた。
雨脚が、少しずつ強くなる。濡れていく画面を、俺はただ、ぼんやり眺めていた。帰る気にも、なれなかった。
――そのとき。
雨に濡れた画面に、ふっと、影が差した。
いつのまにか、俺の頭上に、高級な傘が差し出されていた。
傘の主を見上げて、俺は自分の目を疑った。
如月暦。
学校一の、氷の令嬢だった。
銀髪が、雨のなかで濡れないよう、傘の下にきれいに収まっている。白いワンピースの上に、上質な薄手のカーディガンを羽織っていた。灰色に暮れかけた雨のなかだというのに、姿勢は定規で引いたようにまっすぐだった。
なぜ、こんな時間に。なぜ、こんな場所に。なぜ、俺なんかに傘を。
雨の公園に、氷の令嬢が、ひとりで。付き人も、車も、見当たらない。しかも、俺の頭の上に、傘を差している。どこをどう考えても、辻褄が合わなかった。
疑問が渋滞して、言葉にならない。俺は、雨に打たれながら、ただぽかんと彼女を見上げていた。
「風邪を、召しますよ」
如月は、静かに言った。抑揚のない、氷点下の声。学校で、彼女がごく稀に口を開くときの、あの「わたくし」の声だ。感情のない、透き通った響き。
俺は、あんぐりと口を開けたまま、間抜けに彼女を見上げていたと思う。
「秋月さん、でしたね。同じクラスの」
覚えられていたことのほうが、驚きだった。俺みたいな空気と、彼女みたいな存在とでは、記憶に残る接点なんてないはずなのに。名前を、知られていた。それだけで、頭がうまく回らなくなる。
「あ……如月、さん。どうも。でも、俺は、その、大丈夫だから」
慌てて立ち上がろうとして、俺はスマホを取り落としそうになった。
濡れた画面が、彼女のほうを向く。
そこに映っていたのは、投稿サイト「物語の樹」の管理画面。俺の連載――『泥の中の星』の、間抜けなPV一桁の数字が、煌々と光っていた。ゼロと、一と、二。三年ぶんの、みじめな成績表。
しまった、と思った。
またイタいと笑われる。渡り廊下の失笑が、耳の奥でよみがえる。あの令嬢にまで、こんな惨めなものを見られた。俺は反射的に画面を隠そうとした。
けれど、その手が、止まった。
如月が、画面を、見ていた。
覗き込む、という言葉では足りなかった。彼女は、傘を持つ手をわずかに傾け、雨がカーディガンの肩を濡らすのもかまわず、身を乗り出すようにして、じっと、俺のスマホの一点を見つめていた。まるで、そこに世界の全部があるみたいに。
氷点下の瞳が――揺れていた。
学校では絶対に見られない表情だった。あの、誰も寄せつけない氷の令嬢が、俺の安物のスマホの前で、呼吸を乱している。まるで、ずっと会いたかった相手に、ようやく巡り合えたみたいに。
そんなはずはない。俺は、ただの底辺だ。笑われこそすれ、こんなふうに見つめられる理由なんて、どこにもない。
「……冬野、結」
聞き間違いかと思った。
俺のペンネームを、誰にも教えたことのないその名を、彼女の唇が、確かに象っていた。
「なんで、それを」
心臓が、早鐘を打っていた。
冬野結。その名前を知っている人間は、この世に、俺以外いないはずだった。画面に出ているのは、作品のタイトルと、あの一桁の数字だけ。ペンネームなんて、どこにも表示されていない。学校の誰にも、優奈にすら、言ったことのない名前だった。
なのに、なぜ。よりによって、この氷の令嬢が。
如月は答えなかった。答える余裕が、ないように見えた。
完璧無比だったはずの氷が、みるみるひび割れていく。彼女の呼吸が、浅く、速くなる。白磁の頬に、雨とは違うものが、うっすらと差した。
傘を差してくれているのに、彼女自身の肩は、片方だけ、雨に濡れていくのに。彼女はそれに気づいてもいない様子で、ただ俺の画面を見つめ続けている。
俺は、このとき初めて気づいた。
彼女が、傘とは反対の腕に、何かを大事そうに抱えていることに。
雨よけのビニールに、二重、三重に包まれた、分厚い塊。革の表紙が、街灯にちらりと光る。何冊もの、手記のようなもの。よほど大切なのだろう、彼女はそれを、自分の身体よりも雨から庇っていた。自分が濡れるより、その中身が一滴でも湿ることのほうを、恐れているみたいに。
何が、そんなに大切なのか。俺は、まだ何も知らなかった。
「如月さん、それ……」
俺の問いは、途中で止まった。
如月の指が、震えていたからだ。傘の柄を握る、その細い指先が、小刻みに。
長いあいだ探していたものに、ようやくたどり着いた。そんな、震える指だった。
そして、ほとんど吐息のような声で、彼女は言った。
「……見つけました」
雨の音の向こうで、その一言だけが、はっきりと俺の耳に届いた。
見つけた。何を。まさか、俺を――?
問い返す前に、如月の瞳から、ひとすじ、雨とは違うものが、白い頬を伝って落ちた。
安物のスマホの一点を、氷点下の瞳が食い入るように見つめて——「冬野、結」。誰も知らないはずのペンネームを呼ばれた瞬間に【びっくり】、「見つけました」の震える声が尊かったら【にこにこ】を。この続き、ブクマで見届けてください。




