第3話 イタい、って言われた
「ねえ蓮。あたしたち、もう終わりにしよ」
放課後の渡り廊下で、優奈はそう言った。
夕陽が、彼女の巻いた茶髪を光らせている。十年来の幼馴染。小学校の帰り道も、中学の運動会も、いつも隣にいた女の子。俺はまだ、話の意味がのみ込めていなかった。
「……終わりって、何が」
「鈍いなあ」
優奈は笑った。その笑い方が、俺の知らないものだった。
彼女の後ろから、転校生の翔太が歩いてくる。手入れされたマッシュヘア、こなれた制服の着こなし。優奈は、慣れた仕草でその腕に自分の腕をからめた。
「あたし、翔太くんと付き合うことにしたの」
さらり、と。まるで昼食のメニューでも告げるみたいに、優奈は言った。
十年。俺にとっては、十年だった。だが、彼女にとっては、こんなに軽いものだったらしい。
渡り廊下には、他のクラスの奴らも何人かいた。みんな、足を止めてこっちを見ている。この気まずい空気を、面白がるように。
俺は、何も言えなかった。
「怒らないんだ? ま、蓮ってそういうとこだよね」
優奈はスマホをいじりながら、どうでもよさそうに続けた。指先はずっと、画面の上を滑っている。俺のことなんて、もう視界の隅にもないみたいに。
翔太が、優奈の肩を軽く抱いて、俺を見た。品定めするような、余裕の笑みだった。
「ねえ、あんたさ。まだ小説とか書いてんの?」
心臓が、ひやりとした。
それは、誰にも話していないはずのことだった。優奈にだけは、昔、一度だけ打ち明けたことがある。夢を、笑わないでいてくれると思っていたから。
「毎晩がんばってさ、読んでる人ゼロなんでしょ? あんたに読者なんて、いるわけないじゃん」
くすくす、と誰かが笑った。
「いつまで小説家なんてイタい夢追ってんの?」
イタい。
その言葉が、空気を裂いて俺の真ん中に刺さった。
翔太が、余裕たっぷりに肩をすくめる。周りの何人かが、こらえきれずに噴き出した。失笑が、渡り廊下にさざ波のように広がっていく。
「まあ、現実見なよ。翔太くんなんて、家すごいんだから。……蓮とは、住む世界が違うの」
優奈は、それだけ言うと、翔太と並んで去っていった。
俺は、一言も、言い返せなかった。
反論の言葉なら、頭の中にいくらでもあった。誰にも読まれなくたって書く理由があるとか、数字が全部じゃないとか。書くことが、俺の生きる形なんだとか。
でも、口は動かなかった。喉の奥で、言葉がぜんぶ、詰まって止まった。
だって――誰にも読まれていないのは、事実だ。
イタい。そうかもしれない。誰も読まない話を三年書き続ける男なんて、確かに、笑われて当然なのかもしれない。
その夜、雨になった。
窓を叩きつけるような、土砂降りだった。六畳の部屋で、俺は膝を抱えて座っていた。ノートパソコンは、開く気になれなかった。
失恋なんて、言葉は似合わない。もっと惨めな、もっと根っこのところを、へし折られた気がした。夢も、恋も、十年も、ぜんぶまとめて、たった一言で。
イタい。イタい。イタい。
耳の奥で、あの言葉と失笑が、いつまでも鳴りやまない。
もう、いいんじゃないか。やめてしまえば。そうすれば、誰にも笑われずに済む。イタい夢を見ている、惨めな男でいなくて済む。
指が、ノートパソコンのほうへ伸びかけて、止まる。伸びかけて、また止まる。
でも――と、俺は思う。
もし今夜、投稿をやめたら。あの零時二分の「一」は、どうなる。
俺の話を待っている、たった一人。顔も知らないあの人が、今夜だけ更新のない画面を、じっと見つめることになるかもしれない。
それだけは、いやだった。
俺は、濡れた頬を袖で拭って、パソコンを開いた。零時。震える指で、投稿ボタンを押す。
『泥の中の星』の最新話が、静かに世界へ出ていく。今夜も、誰も待っていない――はずの場所へ。
そのまま、管理画面を更新する。もう三年、毎晩くり返してきた仕草だった。
零時二分。
ゼロの並ぶ数字の中で、今夜も、たったひとつだけ、「1」が灯った。
顔も、名前も知らない。それでも、どんな夜も、この人だけは遅れない。零時二分、一秒の狂いもなく。イタい、と笑われたこんな夜でさえ――あの人だけは、変わらず俺の話を読んでくれた。
……ゼロじゃない。
「……でも、1だ」
濡れた頬のまま、俺は、小さく笑った。この一がいるかぎり、俺はまだ、書き手でいられる。やめなくて、よかった。心の底から、そう思えた。
それが――俺の世界がまるごと引っくり返る、最後の"普通の夜"になるなんて。このときの俺は、まだ、思ってもみなかった。
十年の幼馴染にたった一言「イタい」で切り捨てられて、それでも顔を上げて投稿ボタンを押す——その背中に泣けたら【泣ける】、こんな夜こそ蓮を応援したくなったら【いいね】を。差し出された傘の続きは、ブクマして次話で。




