第2話 PV、一。
零時ちょうど。俺は投稿ボタンを押す。
予約投稿を使えば、こうして起きている必要はない。時刻を指定しておけば、俺が寝ていても、勝手に最新話が上がる。その程度の機能は、この古いサイトにもある。
わかっていて、俺は使わない。
誰も待っていない話でも、世界に送り出す最後のひと押しくらいは、自分の指でやりたかった。日付が変わるその一瞬だけ、俺はまだ、ちゃんとこの物語の書き手でいられる気がする。
古いノートパソコンの天板には、ひびが入っている。それでも三年、こいつと一緒に書いてきた。
画面の隅で、砂時計みたいなアイコンが一瞬だけ回って、すぐに消える。俺の連載――『泥の中の星』の最新話が、静かに世界へ出ていく。
出ていく、といっても、誰も待ってはいない。
閲覧数を確かめる。今日の話のPVは、まだゼロ。昨日の話は、二。一昨日の話は、一。
三年書いて、この数字だ。
友達に自慢できるものじゃない。むしろ、絶対に知られたくない。PV一桁の小説を毎晩書いている高校生なんて、笑い話にしかならない。だから俺は、この習慣を、ずっと誰にも言わずにきた。
普通なら、とっくに折れている。実際、同じ頃に始めた書き手はみんな消えた。半年ももたずに、更新は途絶え、アカウントごと消えていった。数字が伸びなければ、人は書けなくなる。それが、この世界の当たり前だ。
ランキングの上のほうには、異世界で無双する話や、ざまぁと呼ばれる痛快な話が並んでいる。何万というPVを集め、書籍化され、きらきらと光っている。俺の書くものは、そのどれでもない。
泥を這ってでも生きる人間を、ただ全肯定するだけの物語。
派手さはない。チートもない。惨めな奴が、惨めなまま、それでも明日へ足を引きずっていく。ただ「生きろ」と、そればかりを言い続ける。俺はそういう話しか、書けない。書きたいものが、それしかない。
『明日を待つ理由が一つでもあれば、人は夜を越えられる』
自分で書いた一行を、読み返す。
書いておいて言うのもなんだが、俺はこの一行が嫌いじゃない。夜が明けないと思った奴が、それでも一つの理由にすがって朝まで生き延びる。そういう瞬間のために、俺は書いている気がする。
――なんて。
誰にも読まれていないのに、偉そうなことだ。
俺は自分に苦笑して、湯呑みの冷めた茶を飲んだ。
数字は、正直だ。PV一桁。ブックマーク、ずっと動かない。感想欄は、三年間、一件もない。
世間から見れば、これは「やめどき」というやつだろう。三年も鳴かず飛ばずなら、才能がないと諦めるのが、賢い判断だ。優奈にもよく言われた。いつまでそんなことしてるの、と。呆れたような、あの声で。
わかっている。わかっているのに、俺は指を止められない。
理由は、ひとつだけある。
もう一度、閲覧数の画面を更新する。指先が、勝手に動く。もう三年、毎晩くり返してきた仕草だった。
今日の話のPVが、ゼロから、変わっていた。
『PV 1』
零時二分。
指先が、ほんの少しだけ、あたたかくなる。
いつもだ。何を上げても、どんなに拙くても、日付が変わって二分――ぴったり零時二分に、必ずPVが一つだけ増える。
誰かひとりが、いる。
顔も名前も知らない。感想をくれるわけでもない。星をつけてくれるわけでも、ブックマークしてくれるわけでもない。ただ、俺が話を上げると、その人だけは、いつも読んでくれる。世界でたった一人。
三年前、初めてその「1」を見たときのことを、俺は今でも覚えている。ゼロが並ぶ管理画面の中で、たったひとつだけ灯った、その数字。あの夜、俺は救われた気がした。誰かに、届いた。
ゼロじゃない。
「……でも、1だ」
俺は、その一に向かって呟く。
誰も見ていなくても、ここに一人はいる。それだけで、俺は明日もまた零時に投稿ボタンを押せる。一は、俺にとって、世界そのものの重さがあった。
どんな夜も、この人だけは遅れない。零時二分。一秒の狂いもなく。
三年間、一度も、欠けたことがない。
考えてみれば、それは少しだけ、こわいことなのかもしれなかった。毎晩、判で押したように、同じ時刻に、たった一人。
今日も、あの一がいる。
どんな人なんだろう、と時々思う。男か、女か。俺と同じくらいの歳か、それとも、ずっと年上か。俺の泥臭い話の、どこを気に入ってくれているのか。
想像しても、答えは出ない。ただ、その人がいるというだけで、俺の夜には、ちゃんと意味があった。
俺はそう思って画面を閉じ、なぜか胸の奥がざわつくのを、疲れのせいだと決めつけて眠った。
三年間ずっと一桁の管理画面で、零時二分にだけ必ず灯る「1」。その一に向かって「でも、1だ」と呟く蓮に胸が熱くなったら【泣ける】を。この「1」の正体が気になったら、続きを追うブクマをそっと。




