第1話 おかえりなさいませ、私の神様
学校一の氷の令嬢が、俺の部屋にいる。
六畳一間。段ボールと、崩れかけた本の山。何日も畳んでいない万年床。蛍光灯は片方が切れかけて、じじ、と鳴っている。
その真ん中に、如月暦が正座していた。
銀髪が、腰まで一筋の乱れもなく落ちている。白いワンピースには皺ひとつない。背筋は定規で引いたようにまっすぐで、その一点だけが、この汚部屋の中で異様に光って見えた。この部屋の空気とだけは、絶望的に釣り合っていない。
俺は、玄関のドアノブを握ったまま動けなかった。ずぶ濡れの前髪から、雫が畳に落ちる。
土砂降りの夜だった。最悪の三日間を這うようにくぐって、やっと帰ってきた自分の巣に、なぜ、氷の令嬢がいる。
夢か。疲れて、とうとうおかしくなったのか。
何度まばたきをしても、彼女は消えなかった。それどころか、俺が帰ってくるのを、ずっと待っていたとでもいうように、静かにこちらへ向き直る。
そう思った瞬間、彼女が動いた。
畳に、三つ指をつく。指先をきれいに揃え、背筋を伸ばしたまま、深く、深く頭を垂れた。銀の髪が、さらりと床に流れる。
雨の音が、遠のいた気がした。
「おかえりなさいませ、私の神様」
声が、震えていた。
その響きには、三日ぶんの――いや、もっと長い時間ぶんの何かが、ぜんぶ込められているように聞こえた。
***
――三日前。
そう。すべては三日前から始まっている。
言っておくと、俺の名前は秋月蓮。都会のはずれにある私立高校の、どこにでもいる二年生だ。友達は多くない。目立つ取り柄もない。強いて言えば、ひとつだけ、人には言えない習慣がある。
小説を書いている。
昼間は、ただの冴えない高校生。夜になると、物語を綴る。誰にも言えない、俺だけの、二つ目の顔だ。
無料の投稿サイト「物語の樹」に、冬野結というペンネームで。毎晩、日付が変わる零時に、新しい話を上げる。それだけが、俺の一日の、いちばん大切な時間だった。
読者は、いない。
いや、正確に言おう。ほとんど、いない。閲覧数――PVという数字は、一桁だ。良い日で三。どんなに悪い日でも、一。
三年、そうやって書いてきた。誰にも読まれない話を、雨の日も、風邪の日も、休まずに。
我ながら、どうかしていると思う。数字は一桁のまま、びくともしない。それでも指が止められないのだから、たちが悪い。
だから、氷の令嬢と俺の人生が交わることなんて、この宇宙のどこにもないはずだった。如月暦。あの如月グループの、ひとり娘。校内で誰ひとり近づけない、完璧無比の氷。銀色の髪と、氷点下の眼差し。廊下を歩けば人波が自然と割れる、そういう存在だ。俺みたいな底辺と、同じ空気を吸っているのが不思議なくらいの、別の生き物だ。
学校で言葉を交わしたことなんて、一度もなかった。向こうは、俺の存在すら知らないはずだった。
なのに今、その氷が俺の万年床で頭を下げている。
俺を、神様と呼んで。
畳についた彼女の指先が、白くなるほど強く床を押していた。頭を上げようとしない。まるで、そうしていないと、この光景が消えてしまうとでもいうように。
俺の部屋には、金目のものなんてひとつもない。人に見せられるものも、何ひとつない。ゴミと、本と、書きかけの原稿だけの、みじめな六畳だ。
そんな場所で、財閥の令嬢が、床に額がつきそうなほど頭を下げている。
現実感が、まるでなかった。
「……如月。なんで、君が」
俺の声は、みっともなく掠れた。
彼女はやっと顔を上げた。青みがかった灰色の瞳が、まっすぐ俺を射抜く。学校で見るあの氷点下の目が――今は、濡れていた。
「三日前から、ずっと」
彼女は言った。
「わたし、決めていたんです。あなたが帰ってくる、その瞬間のために」
わたし。学校では絶対に崩さない「わたくし」を、彼女は使わなかった。
この三日で、俺の世界はひっくり返った。
上と下が、まるごと入れ替わってしまった。何が起きたのか、自分でもまだ、うまく整理がついていない。
底辺だった俺が、なぜ氷の令嬢に神様と呼ばれているのか。なぜ、彼女はここにいるのか。順を追って話すには――やっぱり、三日前まで戻るしかない。
あの、雨の降りだす前の。優奈に「イタい」と言われた、あの放課後まで。
汚部屋の万年床の真ん中で、氷の令嬢が三つ指をついて頭を下げる——この開幕のギャップ絵にぞくっとしたら【びっくり】を。何がどうしてこうなったのか、続きが気になったらブクマを、栞がわりにひとつ。




